ある道のり22~いのちの実相 5 実相への光~

時間の不思議や自分の生命のふしぎが目前に迫っていました。

先のセミナーでは父親に対する憎しみと母親への哀れみのふたつを
完膚なきまでに、自分の心から追い出した後に体験がありました。

父親と母親がキン斗雲(きんとんうん)に二人並んでしかも笑顔で
手を振っていました。そしてその雲は二人を乗せたまま
かなたへと消えていきました。
ああよかったと思いました。

そして二人は仲良しだったんだとも思ったのです。
二人は演技をしてくださった。

強くするために、父は凄い仕打ちをしてくださった。
ふたりに、ありがとうと言いました。

その後合宿セミナー中ですが初めて外に久方ぶりに出ることを赦されました。
鳥の声、雲の流れ、そして柔らかな風。木々さえも
何か生き生きとしていました。
自分のそれまでの体験にはない外の感覚でした。

今その意味がわかります。
自分の意識が作り出したすべての風景でした。
硬い堅いエゴの一部がはがれたとき、その心で見る風景だったのです。

そしてよく言われる過去生があるかどうかはわからない。
ただ浮遊するおばけに意識がのっとられただけかもしれません。
そんな隙間のある、自分の心かもしれません。

時間が系列的なものではないことははっきりとしました。
そして自分とは何か。

ただ肉体だけではなくて、なにか連綿と続くいのちがあることは
わかりました。でもその意味を理解することはできないままでした。

そして、阪神大震災の年のはじめに、その圧倒的体験が突然におとずれたのです。

その頃、心を鍛錬するために2年間ほど瞑想をしていました。
早朝の3時ごろが静かなので、その時間を選びました。
中村天風さんのクンバハカ法による呼吸瞑想です。
その最中に、その体験はおきました。
とても言葉では言い表すことはできず、また誰かに話すのも
ためらわれます。もしかして気が狂ったのではないかときっと思われるだろうし、
話すことでもなく、ただただ黙ってそのことをふせてきました。
(このいのちの実相でお話できることを幸いに思います)

「時間なく」「空間なく」「自分だけしかいない」「いつもつながっていて」
「そのつながっているものは自分」「圧倒的無限無限無限・・・大きすぎる・・」「感覚もなく」
そしてあまりの圧倒的な喜びと感慨と感謝と幸いというものだったからでしょうか、
海のように慟哭したようです。

ほんの短い一瞬だったのか、無限だったのか。
そのことを誰にも言えず、ただただ再びの体験が願いとなり
瞑想に一層励みました。

ふたたびの体験は人生にとって何にも変えがたい尊いものに
思えたのです。
でもそのことは願えば願うほど再び訪れることはなかったのです。
そうその18年の後、娘が体を横たえる一年前の年までは。