ある道のり~いのちの実相 7  事件 1~

二度の自宅内での飛び降りも,何かを試すような感じがしていました。
幸いにも二度とも大した怪我もせずにいたのです。

ただやはりいずれも二ヶ月ほどの入院を余儀なくされました。
薬は増える一方です。
多剤処方で何がなにやらわからず、
まるで薬を食事のように服用しました。

娘の様子はもうとてもそれまでのようにアルバイトができるような
状態ではなくなっていました。
それでも何か自分で誰かの役に立ちたいと
切に願う娘は、かなわぬこととは言え「よくなったらまた働くよ」と
口癖のように言うのでした。
自分の存在を 何かで表したい一心だったのでしょう。

こちらはといえば、大震災の少し前の体験に魂が打たれ、
いまだにわからない旅を続けることになったのです。
ただすべてにそれまでの生き方から大きく変更をすることになります。

震災の1月17日から五日後の22日、毎月22日にうかがう神戸三田の
鏑射寺(かぶらいじ)への鉄道であるJR福知山線がその日に開通となりました。
震災の後なのですが、出かけることにしました。
震災後すぐのその地の風景を車窓から見ていました。
大きく傾いたビルディング、アパート、マンション。
ほとんどが青いシートで覆われた屋根の家々。
文明がこんなにもはかないものとは、と心底思いながら、
物質のはかなさを目に焼き付けました。

鏑射寺は瓦一枚もずれていませんでした。
一日前に震災を予知した中村公隆和尚は、震災の前日に
神戸近郊に住む檀家の方々に電話しその日中に神戸から
離れるように指示しました。

檀家の方々は一人のけが人も死人もなかったようです。
まことに不思議をここでも体験させられます。
未来が今にあったのです。

多くの方たちとの出会いは続いていました。
竹内文書の著者である故高坂和導さんに出会い
日本民族と世界の古代からの関わりに大きな関心を持ちました。

能登半島にある「モーセの墓」や青森県の「イエスキリストの墓」
「モーセ出奔の地 イスラエルネボ山」そして再び「剣山」を訪ねました。
私たちが体験しているこの世界と、過去といわれる世界との
繋がりを魂で感じる旅となりました。

そしてやみくもに近くの山々に登り、多くの神社、イワクラなどの
地を訪ね歩きました。
何もありませんでした。

ただふしぎな現象を、撮影した写真に見たり、幽界からの振動を
感じたりしただけでした。

どこにもあの日のことはありません。
もう次第にあの日の記憶が薄くなり、続けていた瞑想もやめてしまいました。

世の中の現実といわれる世界は、失われた30年に入って
しばらくの年数を経過していました。

今までの方法では事業を継続することは困難になる。
何か新しいことをしなくてはならない。
漠然とそのように感じ取り、携帯電話の代理店をしたり
ポケベルの代理店をしたり、インターネット関連の仕事をしたり、
本業の建築関連仕事とは別に新しい道を模索していました。
しかしながらそれらのいずれも真にワクワクする心とは
遠いところにありました。

そしてポケベルに続いて、絶頂期にあった携帯電話の
代理店もやめてしまいます。

また他の電話やインターネット関連の仕事をも手を引くようになりました。
私たちと同じスタートラインに立っていたのが
孫さんや楽天の三木谷さんでした。
でも 彼らの夢である物質的な大きさには何の興味も持てなかったのです。
この世の10年という長い時間が経過し、
目が覚めるような2006年を迎えました。

「30歳を過ぎれば、おさまりますよ。」
当初発病時の医師の方の言葉が一筋の明かりではありました。
娘が31歳を迎える2006年になっていました。

私は娘の病気については、ほとんど家内に任せきりでした。
というか、そのことから逃げていたように思います。

ただ医師の方との相談とか、入院時とかには積極的に関わりました。
眠れなくなり、わけがわからないことを口にしだし、まったく眠れずに
発狂寸前になる。  いつものパターンが今回も繰り返されました。
そして入院です。

しかし今回はいつものN大学病院に空きがなく、その紹介を
いただいて民間のS病院に入りました。

30歳になりましたが、望みがあったはずの快復にまったくメドがたちません。
もうこれは積極的に娘に関わり、これからの娘の人生を娘が
なんとか一人立ちできるようにと、行動に出ることにしました。

ただ行動と言っても、毎日毎日病院に見舞いに出かけ、
本人の状態を記憶しながら、少しでもやさしく接し、
快復を願うのみでした。

まだ薬についてはまったくの無知で研究しようとも
思わなかったのです。
医師の方に任せ切りです。
一月ほどが経過しました。

いつもの入院時では、一か月を過ぎる頃には、ずいぶんと落ち着きます。
ですが今回はまったく気持ちが持ち上がらずにいました。
毎日の面会室では、恐怖のため「怖い怖い」を連発しました。
しばらくしますと父親との一時外出が許可されました。
そんな日には、二人で鶴舞公園に行きました。

一時間ほどの外出時間ですが、その間に幾度も逃げようとします。
きっと病院に帰るのが恐怖だったのでしょう。
しかし決まりですから、そんなことがあっても病院に戻るしかありません。
そして年が改まり2月になりました。

3ヶ月ほどの入院期間を経て、それでも家庭外泊の許可が出ました。
私たち家族はとても喜んで、金曜日からの二泊三日の家庭での
久々の団欒を迎えました。

ただ過去幾度かの家庭外泊の時のようなやすらいだ様子は
今回は見受けられなかったのです。
そして病院に戻らなくてはならない日曜日の朝、そのことは起きました。

子ども会向けの廃品回収の日です。
いつもは家内と私とあいている家族で、ビルの前まで
雑誌とか新聞、ダンボールなどを運び出します。
一時間ほどの作業です。

その日は娘の様子が何か不安定なため、家内に娘を見てくれるように
頼み一人で運ぶ作業をしていました。
「アーー!!」という叫び声のあと、ドスンとものが落ちた音が聞こえました。
「まさか!!」  心が震えました。

いそいで娘の8階の部屋に行きました。
家内は震えていました。
回転窓のほんの小さな隙間から無理に飛び降りたのでした。
家内の持ちこたえることができない、娘を握り締めた手をすり抜けて
落ちていったようです。

窓の下を見ましたら、娘がパジャマ姿で、お隣さんの1階の瓦屋根に横たわっていました。
「救急車呼んで!」
「まみちゃん お母さん見てて!!」
動転する家内のほうが心配になっていました。
私は急いで下に駆け降り、お隣さんの玄関ドアの前に行って
チャイムを鳴らしました。