ある道のり31~いのちの実相 14 別れと出会い~

「レベル4です。余命3ヶ月です。化学療法が必要です。」
医師の方の決まり文句がありました。

もちろん抗がん剤治療をお断りし、なんとか自然療法で治癒できないかと
思い、さまざまな情報を集めました。

とりあえず、がんの摘出手術は生命に関わるほどだったので
していただくことにしました。
暮れの12月になっていました。

5度ほどの医師の抗がん剤の勧めにも応じず、お正月に退院となりました。
その後の検診も数回で、詳しいCT検査とかはしていただけないままでした。
化学療法をしないということは、医師にとっては治療を拒否していると
みなされ、そのような患者に何故検査が必要ですか、との言でした。
なるほどでした。

直腸がんが見つかったとき同時にあった肺の小さながん細胞の
その後や、直腸がんのその後の状況をしらべることもなく、
9ヶ月が過ぎました。

今回はなんだか楽観していました。
なぜかといえば、結果である肉体は、原因である心が変化すれば治ることが
明確にわかっていたからです。

それで「屋久島の春ウコン錠剤」を主剤として他のものと
併用しながら、心の平安の維持につとめました。

「心が快復してきたのだから、必ず治る。」
と強く思いながらも、心が穏やかになってきたのに
何故体にがん細胞ができるのだろうと、娘の真の心の
状態がつかめないことに不安感があったのでした。

他人のことをどうこうすることは、絶対に不可能。
だから他人の人生を、他のものが語ることさえ意味のないこと。
それまでの学びから至極当然なことを思います。

ただ、親子という特別な関係だから、子を哀れに思う心を消すことはできません。
特に手術後の痛みもなく、心もますます穏やかになってきた状態に
誰もが安堵していた矢先、肺がんの増殖がみつかります。

9月、学区のお医者さんに診ていただいて、そのことが発覚。
それでもまったくめげない山田家というか、父でした。
ますますこれで背水の陣、ここが正念場と娘と共に病を克服することを
誓っていました。

なぜだか「ファイティン」ということばが、二人の合言葉になりました。
体がつらいとき、力が出ないとき、心が折れそうなときに
「ファイティン!!」と娘と唱和するのです。

家で家族と訪問介護士の方や看護士の方の助けを受けて
娘は、とても懸命に生きたと思います。

「さおりおり」も酸素吸入器が必要になるまでは行き続けました。
5月今度は小脳にがん細胞が見つかりました。

そして平成26年6月18日10時03分静かに母親に抱かれて
息を引き取りました。

自宅のベッドでの、あっけのない最後でした。
最後の一ヶ月間は長い年月、程度の差こそあれ、必ず娘におきた
精神的爆発は一度もありませんでした。

娘は心をとり戻し、今生の体を離したのです。

娘は臨終の少し前めずらしく、絶対口にしない言葉
「お母さん、ありがとね・・・・・ごめんね」を口にし
それを受けた家内は、娘の生命誕生の責任をずっと背負ってきた重荷を
やっと降ろすことができたようでした。

生前の娘との会話

「あのね、人間は肉体だと思ってるだろうけど、ほんとうは
人間は肉体ではなくて、いのちなんだよ。人間は死ぬことがないので、
いのちは永遠にあるんだよ。だから人間は生まれることもないんだけど。」


「お父さん、いつも訳のわからんことばっか言う。
でも人間はいのちだってことはなんとなくわかるよ。」

「だからね、もしね、肉体が終わることになった時には
必ずそのことを誰でも知ることになるので、そうなったら
何かお父さんにサインを出してね。約束ね。」

指切りしました。

二人だけの秘密の約束でした。

「私はあなた」「一体全体」「元ひとつ」このような言葉が
私たちが肉体と思って、全体から分離する心を否定し、
いのちはひとつしかないことを教えています。

そのことをいつもいつも念じ、すれ違う人々にも
自分の心を見るとき、みんなが教えてくれていることを
知ります。

娘は自分そのものでした。
穏やかなる時も、怒れるときも、自分よがりなときも
全体を思いやるときも、厳しいときも、やさしい時も
いかなる時も、その姿は自分を教えていました。

息を引き取り、その夜は葬儀社の方が駆けつけてくださって、
ドライアイスを二日分といって、多めに体につけてくださいました。
亡くなったその夜の娘の顔は、なんだかきょとんとした
驚いたような顔に見えました。

明けて翌朝、娘の顔に大きな変化がありました。
もうその時点で娘は大平安に包まれて喜悦の世界に戻っていました。
私は娘にありがとうと言いました。

その喜悦の表情が娘との約束の答えだと受け取りました。
そしてもう一つ娘は時の不思議を伝えていました。

3人娘の一番の末の娘が、初産のため丁度、里帰りをしていました。
そんな時に長女の葬儀があったのですが、長女が亡くなった日に
産気づき、翌日入院となりました。

朝真っ赤に腫れた目に悲しみが焼きついていました。
ご主人が東京から駆けつけ、ずっと末娘と一緒にいてくれました。

娘の葬儀が終わった21日の夕刻、家族で葬儀の帰りに病院に
立ち寄りました。末娘はヒーヒーとは言いますが
「先生が今日は生まれないと言ってるの。明日促進剤で生むみたい。」
そんなことでみんなで家に帰りましたが私だけは何故だか
「今日の夜生まれるよ。」と笑って言いました。

そして家に戻った夜、ご主人から連絡が入りました。
「生まれました。!!」
初孫の男子、嶺(れい)君が午後10時03分に誕生したのです。
娘は時の不思議を告げ、そしていのちは一つであることを
私たちに残してくれたと思います。
死ななければ普通は分からないことです。

そしてそのことは死後伝えることもできないし、普通はこの幻想世界に
戻ることもできません。

娘のこの世での旅に並走するように、家族のそれぞれの旅が続きます。

他の人の旅は語ることもできず、また語っても何の意味もないのです。
それらはすべて自分の旅だからです。

娘に対して全力投球してきた私の日常は、ポッカリした空洞に
入ったかのように平穏になりました。

平成25年10月から続けていた「奇跡の道」の自己学習が
長い間の疑問に対する答えをもたらすとは思いもよりませんでした。
それは理論や説明をはるかに超えたところにあったのです。