随想 伊路波村から~自分への手紙

修身教授録「自修の人」の項を他の方が輪読されるのを聞きながら、
まったく内容と関係がないのに、母の顔が浮かんだ。
そして感想を述べる時間にまたも慟哭していた。

なさけないような自分の最後の、残り物。?
それが5月18日、早朝の四日市読書会でのこと。
実は4月のはじめ、大阪家庭裁判所から
封書が届いた。
「遺言書検認」の参加要請通知だった。
「何か悪いことしたんかな。?」って
すこしドキドキしながら開封したら、
書類には見知らぬ人の申し立てがあった。

兄と姉に電話した。
関東の妹からは電話があった。
「テレビドラマのような話とちがうやろか。?
おもしろいから行くわ。」と姉。
兄は一緒に行こうと言った。

妹からの電話には、
「遠いから、欠席でいいよ。あとで知らせるから。」と返事をした。

見知らぬNさんという女性は。
遺言を残されたご主人の奥様とわかった。

除籍謄本を取り寄せた姉は、物語のように
不思議な人間の関係を前もって知ることになる。

姉との電話口での会話の中で、もうすでに
いのちの本質はこれから知るであろうことを、
わかっているかのように、震えていた。

「お父ちゃんはな、戦地に行く前にな、
初めて自分の父親に会いに行ったみたいなんや。」

父は母との間に、4人の子をもうけた。
その中でM姓を名乗ったものは一人長男のみ、
こちらは養子にいき、姉妹は嫁いだ。
父はきちんとして結婚で生まれた
子ではなかった。

そのことはずっと前に知っていたけれど。
5月10日、近鉄で大阪に出向いた。

兄と二人だけで、電車での旅なんて生まれて初めてだ。
頭が真っ白な今年で64歳になる兄。
M家では父代わりの大事な柱だ。
なんせみんな父親と一緒に暮らしたことがないんだから。
父は別の場所で、別の家族と共に暮らし、
命を終えた。もうそれから幾年になるんだろう。
はっきり覚えていないけれど、
母が逝って6-7年過ぎたころに旅立ったから
もう16-7年になるんだろうか。

新しく会社を興し、事業に精を出していたころ、
父がなくなった。
「僕には父親はいない。」
かたくなな心が、誰一人にも葬儀のお知らせをすることを
避けさせた。

養子として入った家の父母にも来ていただくことを
遠慮していただいた。
兄の関係のものすごい数の参列者に比較して、
こちらは誰もみえない。

自分でもすさまじいばかりの固い心を
感じるほどだった。
こころのけじめだったのだろうか。
母が名古屋大学病院で、すい臓摘出の手術をした後日、
見舞いに来た父とひさしぶりにあった。
父が帰ったあと、母に聞いた。

「おとうちゃん、ごめんって言ってたか。?」

母はなんにも言わなかった。

今度の大阪行きで過去のすべてが今に来た。
家裁の待合室、兄と姉と3人で待つ。
同室には大阪の人々だろう、きつい関西なまりで
関西での鉄道事故のことを、ほほえましく話しあっている。
15分待つ間に、なんだかこちらとも打ち解けていった。
書記官の方が、開始を告げに待合室にみえた。
全員がいっせいに立ち上がった。
あれ一緒だったんだ。(笑)

書記官の方が示す順番どうりに着席。
父の父親(祖父)には5人の男ばかりの子供が
いた。本日は最後の子供(5男)さんの遺言書だった。
そして戸籍では実子として入籍を許された父は
次男だった。
この5人の男性から生まれた子供は15名。
びっくりした。

一気に10名もの血縁の存在を知ってしまったのだから。
もし5男さん(おじさん)に子供さんがみえたら、
決して会うことがなかったであろう人々。
「男の一滴って  すごいなあ。」
みんなでおじいさんのことを誉めた。(笑)

おそらくよほどのことがない限り、
2度と会うことがないであろう人々。
けれども血は確実につながっている。

父母をとおして最後の血縁のおじさんがなくなったのだった。
実は父には母とのあいだにではない男の子が
一人いる。
どうしてだか戸籍には、いったん離婚届けをだした父の
届けが受理されたあと、裁判所で離婚無効の訴訟が起こされ、
無効が成立したと記載がある。

おそらく父は離婚したかったのだろう。
そして母は必死に抵抗した。
母の死後、その男の子をM家の戸籍に
認知する手続きを兄がした。
立派だったと思う。

父は自分がされたように、
自分も同じことをしたのだった。
母は結婚前に言った。

「ええか、 女はつくってもなんにもいえへん。
けどなあ、子供は絶対つくったらいかん。」

ふだん無口な母にしてはものすごい決意の
言葉だった。

なぜだかやっとわかった。
血潮の恩が体中かぶさってきた。

なぜこの父と母を選んだのだろう。
いったい何を体験したかったのだろう。

父はなんて いやな役を買って出てくれたんだろう。
頭では手放していたはずの父親への思いの
最後の重しがカタッと外れた気がした。

父親との唯一の思い出。
高校時代アルバイトを頼まれたのだった。
寒い日だった。
父と一緒に車に乗って、
タクシー会社の業界新聞の購読費の集金。
しかもなんだか貰えにくい会社ばっかりだったと
あとでわかった。

学生服だけでコートがない姿を見て、
「コレ着てきなさい。」と太い編みの、ドテラのような
服を渡す。

恥かしかったけど、寒かったから着る。
父は集金会社から少し離れた場所に車を
止めて、こちらの首尾を待つ。

ドキドキしながら、大抵は二階にあるタクシー会社の
事務所を訪ねる。

「集金にきました。」と言うと、
すぐにはどこも払ってくれない。
なんだか事務員さんと所長さんとのヒソヒソ話の
あとで払ってくださる会社があったり、
「もう何ヶ月も前に断ったんだから、払えない。」
といったりのどちらかだった。
それでもお金をいただけた時は嬉しくて、
父の待つ車に飛んでいった。

二人でちっといたずらしているような気分だった。
たくさんのアルバイト料もいただいた。

小学校三年生から中学時代まで、
毎週のように生活費を受け取りに出向いた、
父の家の前を、今も通ることがある。
あんまり行きたくないことだったけれど、
適任者はこちら。
何時間も父の帰りを家の前で待ち続け、
やっと会えたら、「今日はだめ」。

25円の路面電車の往復キップの帰りの半券を
落としてしまって、太閤道りから瓦町まで歩いたり、
終点の覚王山まで眠ってしまって、
車掌さんに新栄町まで送ってもらったり。
それでも1週間分の500円をもらえた時の
家族の喜びが嬉しかった。
誰にも秘密にしておきたいことがある。
そう思います。

絶対に言えないこともあることでしょう。
葬式を誰にも知らせなかった非情の子。
入院中にやさしい言葉をかけてやれなかった。
末の娘の顔を見て、死んでいったね。

兄は立派な人生といわれる人間になりました。
もうあと3年働くそうです。

姉は家族で花屋さんしてます。
妹は家族仲良く、今はルンルンです。
僕は元気です。

自分への手紙として、書きます。
ほんとうは、なるべく隠しておきたいことです。
お父さん、ありがとう。
おかあちゃん ありがとう。

平成の最後の年 兄と姉は旅立った。