再録 「竹のものがたり」 その6~藤樹書院を訪ねて

自分が生まれ出たときに、与えられた名前は

森本 正孝 です。

名は役割かどうかわかりませんが、
兄の正は確かに「正義の人」でした。

自分はと言えば、正しく「孝」を行う人。?
ただ正しいとは何かはわかりません。
正しいといえば、邪がすぐ浮かびます。
人生上ではかなり邪も多かったので、正しくは
しっくりきません。

むしろ「公平」がしっくりきます。
この「竹のものがたり」の後半にご縁をいただく、
熊ちゃんこと「岩熊裕明」さんも実は「公平」を
旨とされていました。

父はいず、母は忙しく、親から何かを強制されたり
教えられたりは皆無です。
ですからすべてのことを自分で考えて行ったり、決断するしかない。

「孝」に感しては、母に、兄弟に、子に、友人に、先輩に
そして天に、の中江藤樹の教えのようにしようと、
藤樹を知らな以前から、ずっとそのように生かされたように思います。
でもなるべくです。(笑)

27歳に山田家に養子となり、

山田 正孝 となります。

ところが高名な姓名判断のお人とのご縁から
「この名前ですと、早死にします」と言われ、

現在の  山田 將貴 となっています。

戸籍も変更できました。

この名前がまた、中江藤樹の物語の中でビックリすることに
なりました。

「小説 中江藤樹」を読了し、この3月24日、沖縄行きの前日に
どうしても「藤樹書院」を訪ねたいという願いが消えず、
急に出かけることになりました。
何かの縁を感じざるを得ない文章に出会います。

ずっと独身を通している藤樹にお嫁さんをと
皆がしきりに勧めます。そんな時、藤樹は、
「三十にして室(妻)あり」と答えました。

30歳までは妻をめとらないとの意思表示です。

藤樹が30歳になるとたくさんの縁談が舞い込みます。

転載開始

「中江先生が30歳になられた」と言う日を待って、
あっちからもこっちからもたくさんの縁談が持ち込まれた。

与右衛門は、結局ある娘を選んで結婚することにした。
世話をしたのは、与右衛門が京都で門人にした
伊勢津藩士森本正貴である。(ビックリ!)

伊勢亀山藩士に高橋小平太というのがいて、その娘の
久子が丁度17歳になる。

中略

1637年のある日久子は父親の高橋小平太と
媒酌人の森本正貴に連れられて、小川村にやってきた。

娘を見て、
「中江先生のお嫁さんは、どんな人だろう?」
と興味一杯で押しかけていた連中は、思わず、
「あっ」と小さな声を上げた。囁きが草を伝わる風のように
流れた。それは久子の容貌があまり美しくなかったからである。

与右衛門は久子の顔を見た。容貌は美しくはないが、
目が澄んでいる。そしてその底にあるのは叡智の光だった。
与右衛門は(この女人なら大丈夫だ)と安心した。
その思いが久子に伝わったのだろう、久子も微笑み返した。
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母は久子の醜さに、離縁をするよう与右衛門に言います。
その時の会話です。

「今の与右衛門さんは、ここではもう有名な学者先生です。
その先生の奥さんが、ああいう人では困ります。
女性には七去(しちきょ)というのがあるはずです」

与右衛門が思わず、
「えっ?」と聞き返すようなことを母はいった。
小川村に戻って以来、与右衛門は母親に対して、
「母上」とは決してよばない。武士の身分を捨て、
処士になったのだから、「母上でなく、お母さんで通そう」と思い、
その通りの呼び方をしていた。与右衛門はいった。

「お母さん、それは違います」
「何が違うのですか?」
「七去というのは、夫の母に従順でないこと、子のないこと、
おしゃべりなこと、盗みをすること、淫乱なこと、
嫉妬すること、悪い病気があることの七つです。
容貌が醜いというのは、この中には入りません」

「?」
言い返されて、母親は険悪な表情になった。言い募った。
「与右衛門さんは、お弟子さん達にはいつも、
親には孝行しなさいと教えているはずです」
「教えております。孝は一番大切な人間の道です」
「それならば、なぜわたしのいうことを聞かないのですか」

「親に孝を尽くすということは、親の言いなりになるという
ことではないと思います。聖人は、親に非がある時は、その非を
諫めることも孝だといわれていると思います。
お母さんの理は通りません。わたくしは久子を妻とします」

このようなわけで母親と嫁は以来仲が良いとはいえず、
久子はこの10年後に早逝します。

久子は二人の男子を授かりますが、いずれも22歳と21歳で
亡くなります。亡くなる前は対馬にて育ったようです。

久子が亡くなってから二年後、与右衛門は後妻に19歳の娘を
迎えます。その翌年、後妻は男子を生みます。
その男子の子孫が、現在の中江家を継いでいます。
神戸在住と聞きました。

男子誕生後2年で中江藤樹は亡くなります。
持病の喘息の悪化でした。
亡くなる少し前に藤樹は妹夫婦に遺言します。

「後妻を国元の亀山に返してください。
まだ19歳ですから、再婚できるように。
ただ子はこちらで育てていただきたいのです」

令和3年3月24日「藤樹書院」のとなりにある資料館の
パーキングに着きました。
午後1時に出発して二時間もあればと思いましたが、途中道を間違えたのか、
1時間ほど予定を過ぎていました。
資料館には二人の男女が詰めてみえました。

来客は到着が4時すぎとあって誰もいません。
資料館の開き戸を静かに開けます。
住所、連絡先を記入し終わると、すぐに男性がこちらが
「藤樹書院」ですと促されました。

足元には寺院のように白砂がきれいに掃き清められています。
歩いて白砂を踏むのが憚られるぐらいにきれいで静粛。

書院の中に案内されて、どうぞここにおかけくださいと、
正面の黒い椅子を指さされました。

ご案内くださった男性は、元校長先生ともう御一方の
女性から後でうかがいました。

「正面の御位牌が藤樹先生、そして祖父母、ご両親とお母さん、
お子さんとお嫁さんのものです。
儒教式の御位牌ですからこれだけです。
御位牌の横には穴が開けて合って、いつでも故人の霊魂が
返ってきて宿れるようになっています」

と位牌の見本を
中を開けて見せてくださいました。
さらに続けて、

「この小川村は明治時代に大火がありまして、藤樹書院は焼失しました。
この建物はご寄付によって、そのしばらく後に忠実に
再現して建て直されています。

その火事の日、村人は自分の家が焼けているのにも
かかわらず、藤樹先生やそのご先祖の御位牌や、
少しでも藤樹先生の遺品を持ち出そうと、みんなで
ここにかけつけました。
そして村のはずれの神社に、みんなで運び込んだ後、
自分の家の消火にかかったのです。

当時の村人のおかげで、この藤樹先生の講義された机も
焼けずに残っています」

左手の机を指さして説明されました。

「あと藤樹先生の着ていたどてらとか、すこしまだ
衣類が残っています」と付け加えられ、

「どうぞ、ごゆっくりお過ごしください」
と言い残し、男性は早々に去っていかれました。

書院内に一人残された後、その見本の位牌が置かれた
藤樹先生のほぼ400年前の机のまえになぜか正座していました。

その時まさに、藤樹先生の息吹きが届いたかのように、
その場で号泣していました。
しばらく動けずにいたのですが、書院内のあちらこちらの
様子を拝見。また藤樹先生の像と後ろの400年前の衣類を
見た後、書院を辞去しました。

庭に出ますと、熊沢蕃山が二日間座った門の場所、
藤樹先生が愛した藤の木、そして外に出て、
「鯉と盆栽」の溝の清流に当時を思い浮かべました。

資料館に残っていらっしゃった女性とお話。

「ここは国の指定文化財になったので、
このように立派になっています。
こうして駐車場も整備され、資料館もできて、
それまで村だけで守ってきたことが夢のようです。

村の男女がペアになって、365日毎日交代で
ここにいます。」

一年365日、毎日毎日訪れる人に藤樹先生の説明をする村人。
毎日必ずどなたかがみえ、コロナ前には修学旅行生もバスで
多数みえたと語る女性。

駐車場無料、入場料無料、年中無休、すべてボランティア。
今の世にこのようなところがあるのだろうか。
ここに藤樹先生の思想の偉大さをみます。

「何かを残すんだったら、生き方を残さないかんよ」
坂田先生の声がふたたび届きます。