随想 伊路波村から57~突然の理解

以前に聞いた言葉でその時には理解できなかった言葉。
そのような言葉がなんでもないときに突然に理解に
いたる不思議な感覚があります。

「人生とは心をきれいにすること」

「仕事は掃除すること。掃除だけしていればいいです。」

「自然は陰陽の法則ですが、人間だけは類友です。」

人間の中の見えない心は現象を通じて理解できます。

最近よく言われる言葉は
性格は顔に、感情は声に、本音は仕草に、美意識はつめに
などなど出るといわれています。

見えない意識が現象に現れます。

最近のテレビは知識のオンパレードです。
らしいです。

糸川先生は「無知は罪」といわれました。
でも同時に世界中を旅し、世界中に友達ができ、
どんなことでも知っているはずの先生はご自分のことを
「自分の知っていることは0に等しい。」といわれたようです。

先生の「無知は罪」の「知」とは何でしょうか。
私達の思い込み、経済や知識偏重の心がその真の「知」に
大きな壁を立ててしまっているのかもしれません。

「人生とは心をきれいにすることです。」

はがき道の坂田先生の言葉です。
人生を損得で考えがちな私達にとってはなんとも
不可解な言葉です。

「心をきれいにして生きていけるか!」

おもわず叫びそうです。

でもイエスは言っています。
「汝の見るもの受け継がん」
あなたの見るもののような人間になりますよ、と言っています。

イエローハットの鍵山さんがおっしゃったのは
「極端に言えば掃除だけしていればいいです。」
そうです。掃除をすればきれいになる。

きれいな職場、きれいな家庭、きれいなトイレや台所や
部屋、廊下・・・・・・・・・・。
「汝の見るもの受け継がん」ですと、
掃除をして自分の心がきれいになるようです。

「人生とは心をきれいにすることです。」

ここで坂田先生の言葉と繋がりました。

心をきれいにすれば何がおきるのでしょうか。
人間は不快を避け快を求める動物。
「出したものが還る」 出した意識が戻る、の真理法則に
よりますと、きれいな心はきれいな現実を呼びます。

きれいな現実とは一般的には「快」となります。
ちょっと変わった理解のしかたかもしれません。

次に繋がったのは「人間だけは類友です。」

飯島さんの言葉です。

同じ波長(磁波)を持った人間が集まる「類友」です。
たとえばどなたかが先生で、その先生の講演会などに
人が集まります。
その先生の言葉を聞きたい。
考え方を知って実践したい。
方向が同じですが先生と聴くほうは差があります。

ここでもしその目的が損得でしたらどうでしょうか。
損得でしたらおそらくそれは知識の世界です。

先生のほうが多くのことを知っていて、聴くほうは知らず
先生の知識を吸収して自分の損得に生かしたい。
それでも「類友」です。

目的が「真理の探究」でしたらどうでしょうか。
先生と生徒の求める方向が同じで、先生と生徒との差とは
いったい何なのでしょうか。

ある時突然に心に湧いてきました。
とても一般的な言葉ですがそれは「受容」です。
たぶんですが。

先生と生徒との差は「受容」の幅の大きさでしょうか。
生徒は先生との「受容」の幅の大きさに驚き、涙し行動が変化します。

そして先生との差が埋まるまでは何度も何度も聞き差を埋めます。
差が埋まり、さらにそれを飛び越えようとする時に卒業です。

「すべてを受容する」
すべての人がすでに自分にあって、忘れているこの真理。

人生のこの目的が思い出される頃に真の卒業をむかえるのでしょうか。

人生でご縁をいただいた方々からの宝石のような言葉。

「人生とは心をきれいにすることです。」
「仕事は掃除すること。掃除だけしていればいいです。」
「自然は陰陽の法則ですが、人間だけは類友です。」

これらはすべて実践から生まれ出た言葉なのです。

そしてすでに赦されて私達はあります。