「世界支配を目論むユダヤ人」 奥の院通信 R3 3/23

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イスラエルの歴史は、族長(まだ王ではない)アブラハムがメソポタミアのウル(現イラク南部)の地からカナン(現パレスティナ)の地を目指して、移動し始めた頃に始まる。紀元前17世紀頃のこととされている。この頃、隣のエジプトは第13王朝である。国家は安定しており、中央政府の権威は国全体に及んでいた。しかし、末期にはこれが崩れ始める。

 アブラハムの孫ヤコブ(父はイサク)の時代に、彼らはエジプトに移住するが、子孫はその後エジプト人の奴隷になったと、歴史に書かれている。しかし、この頃エジプトにはパレスティナを治めていたヒクソス族が、エジプトに侵入し、エジプト第15王朝を建てた。この時、ユダヤ人たちがこのヒクソスのエジプト侵入の手引きをし、ヒクソスについてエジプトに侵入したのであった。のちにペルシャの手引きをして、バビロンを潰す手伝いをしたのと全く同じである。

 その後前1542年、ヒクソスがエジプト新王国によって追い出されるまで、ユダヤ人はヒクソス族の下で、貴族としてエジプト統治をしていた。その統治が非常に過酷で、彼らはエジプト人からは憎まれ、ヒクソス族が追い出されてから以降は、奴隷の身分に落とされた。奴隷の時代が400年続いたと言われている。ところが、このユダヤ人がエジプトで奴隷になった原因の部分については歴史には書かれない。何故、奴隷になったかは歴史に書かれないのである。

 奴隷として働かされる屈辱に耐えられず、元のパレスティナに戻りたいと願ったが、彼らの過酷な支配に怒っていたエジプト人はこれを認めなかった。しかし、働くことを嫌がりサボタージュをする、安息日には働かない、徒党を組んで反乱を起こすなどし、扱いにくい奴隷としてエジプト人は音を上げ、彼らの出て行くことを遂に認めたのであった。その後にモーゼに率いられエジプトを脱出した(出エジプト)となる。

 エジプトを脱出したユダヤ人(イスラエル人)は、およそ半世紀シナイ半島を放浪し、イスラエルの地に戻ってきた。それから200年掛けてその一帯を征服していき、ダビデ王の時に統一イスラエル王国として12の部族が1つになった。それからおよそ100年後に現れたソロモン王の時代、政治が強権的で重い税と過酷な苦役が課され、遂に北部で反乱が起き国は分裂した。別れた民の一方は北王国を作って、エジプトに追放されていたソロモンの家来ヤロブアムを呼び戻して王とした。この時イスラエルは南北に分裂したのであった。

 北王国はシェケムを再興して都とし、南のユダ王国はエルサレムを都とした。ここで重要なことは、この時のイスラエル民族は、現在のユダヤ人のように一神教ではなかったということである。

 その後北イスラエルは前722年アッシリアに滅ぼされ、民は世界各地に逃亡した。南のユダ王国は同じく前539年バビロンのネブカドネザル2世に滅ぼされた。そして、彼らがバビロンで捕虜として生活している間に、彼らが今のようなユダヤ教を作り、これだけしか認めない一神教民族となった。従って、今のユダヤ人はこの時バビロンで生まれたイスラエル民族の一部であると言える。

 しかし、元のイスラエル人は多宗教民族として世界に散っていったのである。だから、今のユダヤ人は、彼ら以外のイスラエル人をユダヤ人とは見なしていない。

 今のユダヤ人はイスラエル人の一部がバビロンに連れて行かれ、バビロンでタルムートのような経典を作って、本来のイスラエル人から分離したのであった。だから、本来のイスラエル人は世界各地に散らばっているが、彼らは何も悪さをしていない。行った先の国を滅ぼしたりしていない。

 散っていったイスラエル人の一部は支那にも行っており、秦の始皇帝はその子孫であるという説もある。そしてまた、彼らの一部は日本にも来ており、秦氏一族はその子孫であるという。いわゆる日ユ同祖論を言う人もいるが、この流れから言えば、必ずしも間違いではない。

 しかし、今のユダヤ人は本来のイスラエル人とは別系統であり、思想も宗教も全く違う。我々日本人としては、この世界支配を目指す今のユダヤ人一派とは、同祖などとは言われたくない。彼らは日本人とは同祖と言いたいであろうが、それなら悪さをしない善良な民族となってから言って欲しいものである。日イ(イスラエル)同祖論であるならまだしも、日ユは止めて欲しいものである。それこそ、一緒にしないで欲しい。