「竹のものがたり」 その1~それはお人の勘違いから始まりました。

今日と言う日は令和3年3月29日です。

令和2年の出来事を思い出しています。
昨年は人生でもかなりの激動を感じた年となりました。

1月初め、実兄の逝去。
2月末、潰瘍性出血での緊急入院。
9月、沖縄での、酔っ払いの転倒による右手薬指を
縦に真っすぐ裂傷。薬指の指先は骨折。
傷は癒えましたが、指先は今もしびれています。

そして昨年初から続いた、爆発的な記述欲求。
それらも過ぎ去りましたが、今も淡々と記述が続いています。

昨年の12月13日のことです。
いつもの年そうするように、年末、長くお世話になっています
野口ご夫妻に名古屋で個人の御天画を描いていただきました。

少し恥ずかしいことですが「竹のものがたり」の始まりの
御天画となりましたので、紹介させてください。

まず左の円の中には、少し行く先の定まらない
ボ~~とした顔の自分が。

何故かと言いますと、昨年の3月からモーター発電機の
センサー機器が順調には作動せず、長くまったく動かない期間が
続いていたのです。

それで顔がぼーっとしていたようです。
いつもぼーっとしていますが。(笑)

あとお使いが竹を担いで現れます。
竹の節のように幾度もの節目を過ぎて
七夕の頃の7月「和」が訪れる。
また無印の赤い短冊は「火」を表し、
少し陰に隠れた黒い短冊は「水」を表す。

すなわち火と水で「カミ」ですね。

左下のハンコ台とハンコ。
何らかの契約をするとの未来の今。

そして矼悦(コウエツ)の文字で回転が成る。

矼(コウ)とは、石橋/飛び石/かたい/まじめ/誠実ななどの意味をもつ漢字。
悦(エツ)は喜び。

こんな感じですが一体何で竹で笹の葉。?
書いていただいた時はまったくわかりません。

ただいろんな方が訪問されるので、
あたまを真っ白にして、聞き続けてくださいね、
というご助言をいただきました。
だいたいおしゃべりなので。(笑)

さっぱりわからないまま2か月が過ぎました。

そして年が改まった今年の2月まさかの展開が
現実となってきたのです。

それはある方からお聞きしたお話の間違いから
始まりました。
それは中江藤樹のお話でした。

中江藤樹は1600年代のこの国の陽明学の祖です。
そして「近江聖人」と言われる聖なる人。

藤樹は実家の庭にあった古い藤の木をこよなく
愛したため、後に人々がつけた名前で、
本名は中江与右衛門と言いました。

藤の木は400年後の今も健在です。

与右衛門は8歳で祖父母のもとにもらわれていきます。
何故かと言えば、父が武士の地位を捨て農民となり
「処士」をめざしたからです。
祖父母には父である一人子以外に子がいないので、
そのままではお家断絶となります。
父は祖父母に頼まれ与右衛門を手放すことに同意したのです。

「処士」とは中国の孔子さんのように、ある程度の
財や仕事を持ちながら、周りの人々に学問を説いていく
人をそう呼ぶようです。

いよいよ祖父とともに米子の加藤藩に移動していく前の日の夜、
与右衛門は父に呼ばれ父と一緒の布団で寝ます。

父と共に寝ることは初めて。

父は与右衛門を布団の中で抱きしめながら、
「処士」になりたいのだと告げます。
「処士」のことはよくわからない与右衛門でしたが、なぜだか涙を
流しながら眠りに落ちていきます。
父も泣いていました。

そのような父や母、そして近江の高島町小川村の実家との
お別れの時となりました。

時は流れ、翌年9歳となった与右衛門ですが、
すでに神童の片鱗を見せ、米子藩で郡奉行であった
祖父の手伝いをしており、他の武士にも尊敬されるほどの
働きをしていました。

江戸時代となり、徳川家の方針で大名が一定の地で
勢力を拡大しないように、たびたび「鉢植え」と呼ばれる
藩の移動を命じていいました。
今でいうと支店長の転勤です。

加藤藩の命じられた転勤地は、愛媛県の大津でした。
もちろん米子の武士たちはすべて藩主に伴って
移動します。

与右衛門も9歳で愛媛の大津に移動しました。

加藤藩主は近くにもある大津と同じ名の大津では
紛らわしいと、すぐに大津を「大洲」と改名します。
今の大洲市肱川町がその地です。

肱川おろしという、川霧で有名な美しい町です。

後にこの肱川町でも大変な尊敬を今でも集めている
中江藤樹が「竹のものがたり」の主題になるとはまったく
夢にも思えないことでした。

27歳になるまでこの地で朱子学などを説き、多くの武士の
尊敬を集めた与右衛門でした。

しかしながら次第に学問を立身出世の道具にすることが
江戸時代の大勢になってきていました。

人間の「忠孝」を基本として、一人ひとりが
必ず持っている「明徳」を明らかにするのが人の道と
確信をもつ与右衛門でしたが、幕府の林羅山の弟子が加藤藩主の
代替わりにより重用されるにしたがって、与右衛門
は大きな無力感を覚えていきます。

それに至る以前に、藩主に黙って病弱の母に会いに、
高島町小川村の実家を訪れます。

しかし母は「藩主のお許しをいただいたのか。?」と
尋ねます。
与右衛門がいただいていません、と答えると母は家の戸を
開けることもせず、戻るように命じます。

与右衛門は仕方なく藩に戻ります。

人望が篤かった与右衛門でしたが、27歳の時に
脱藩を決意し、母のもとに戻り忠孝を尽くし、
父の念願であった「処士」になろうと決意します。

脱藩は当時切腹です。
追手が来て切腹を強いることが普通です。
しかし藩主は与右衛門に追手を出さず、脱藩を
許したのです。