「30歳を過ぎれば、おさまりますよ。」
当初発病時の医師の方の言葉が一筋の明かりではありました。
娘が31歳を迎える2006年になっていました。
私は娘の病気については、ほとんど家内に任せきりでした。
というか、そのことから逃げていたように思います。
ただ医師の方との相談とか、入院時とかには積極的に関わりました。
眠れなくなり、わけがわからないことを口にしだし、まったく眠れずに
発狂寸前になる。 いつものパターンが今回も繰り返されました。
そして入院です。
しかし今回はいつものN大学病院に空きがなく、その紹介を
いただいて民間のS病院に入りました。
30歳になりましたが、望みがあったはずの快復にまったくメドがたちません。
もうこれは積極的に娘に関わり、これからの娘の人生を娘が
なんとか一人立ちできるようにと、行動に出ることにしました。
ただ行動と言っても、毎日毎日病院に見舞いに出かけ、
本人の状態を記憶しながら、少しでもやさしく接し、
快復を願うのみでした。
まだ薬についてはまったくの無知で研究しようとも
思わなかったのです。
医師の方に任せ切りです。
一月ほどが経過しました。
いつもの入院時では、一か月を過ぎる頃には、ずいぶんと落ち着きます。
ですが今回はまったく気持ちが持ち上がらずにいました。
毎日の面会室では、恐怖のため「怖い怖い」を連発しました。
しばらくしますと父親との一時外出が許可されました。
そんな日には、二人で鶴舞公園に行きました。
一時間ほどの外出時間ですが、その間に幾度も逃げようとします。
きっと病院に帰るのが恐怖だったのでしょう。
しかし決まりですから、そんなことがあっても病院に戻るしかありません。
そして年が改まり2月になりました。
3ヶ月ほどの入院期間を経て、それでも家庭外泊の許可が出ました。
私たち家族はとても喜んで、金曜日からの二泊三日の家庭での
久々の団欒を迎えました。
ただ過去幾度かの家庭外泊の時のようなやすらいだ様子は
今回は見受けられなかったのです。
そして病院に戻らなくてはならない日曜日の朝、そのことは起きました。
いのちの実相 6
塾は終了しました。
その塾で知り合った方たちとの交流は22年経過した今でも
続いています。 塾のOB会もできました。
また「井の中の蛙」状態だった私ですが、その塾の塾生の方からの
勧誘で新しい異業種交流会にも参加するようになりました。
50歳までの5年間の貴重なる学びとなりました。
生活が一変しました。
実際的な仕事は、すべて社員の方に任せ、まず自分の能力開発と
新しい何かを始める糸口探しが始まりました。
仕事中心の生活を変え、間口を大きくしてすべての方から学びたいと
強く思うようになりました。
それまでの自分にとっては、まったくの大変化でした。
1.心を変えたい。
2.人間とは何かを知りたい。
その二つが願いでした。
その時代まで続いていた夜遊びにはだんだん興味が薄れていきました。
でもその夜遊びの中で人生の転機が待っていようとは・・・。
何か心の勉強をしたい。
その頃はやっていた能力開発セミナーはいくつもありました。
その中でもふたつに絞っていて、誰か紹介者を探していました。
経験のある紹介者がいないと参加ができないシステムになっていたのです。
紹介者を探す毎日でしたが、ある夜遊びのスナックでポロっともらした
言葉に同業者の社長さんが反応しました。
「そこだったらボクが紹介しますよ。凄いですよ!人間のオーラが見えますよ。!」
酔っ払ってはいたけれど、完璧に渡りに船状態でした。
(もうひとつのセミナーはその後事件となったセミナーでした。
後に何かに守られていることに感謝しました。)
その晩は嬉しくて嬉しくて何かが大変化する予兆を感じ取っている
自分を見ていました。
いのちの実相 7
商工会議所主催のN塾が終了し、そのOB会が発足しました。
ある日のその会合の後、世話人のKさんと友人のIさんと共に
居酒屋にいました。そこでの会話の中で、私は世話人のKさんに
このように言いました。
「人間ってなんでしょうか。本当のことってなんでしょうか。
わからないから知りたい、学びたいと思っています。」
酔っていました。
それまでの私とはまったく異なり、すべてに積極的で
気が向いたことならなんでもやりたい、頼まれたことは
「はい喜んで!」に変わっていたのです。
Kさんは「そうか、そんなら今度おもしろい会合があるので
そこにいりゃ~」と名古屋弁でこたえました。
なんでも拒否しなくなっていたので、二つ返事でした。
ワクワクしていました。
いのちの実相 5
娘の発病がきっかけとなり、 それまでの人生に疑問を感じた私に届いた
勉強会の誘いのままに申し込みをしました。
生き方、経営の仕方が知りたい。
どうして普通に生きていて、娘があのような病になってしまうのか。
なぜそれが私たちの娘なのか。
私は4人の子供たちに勉強を、しなさいと言ったことは一度も
ありません。また学校の通知表を持ってきた時は、成績のことには
一切触れず、通知表の後ろの先生の文章を読み、何かみんなのために
できたことや、すこしでも成長したことを大げさにほめました。
それが本音でしたから。
気がつけば、母が私にしていたようにしていたのでした。
いのちの実相 4
「30歳くらいになれば落ち着きますよ。」
大学病院の先生は言いました。
30歳まで13年・・・・・・長いなあ。が正直な思いです。
それから後、2006年のあのできごとが起きるまでの14年間に
娘は13回もの入退院を繰り返します。
ほぼ一年に一度の入院生活を1~2ヶ月送りました。
それでもなお主に娘の係りは家内でした。
私は避けるかのように、娘のことから逃げていました。
入院が近くなる前は決まって眠れなくなり、精神が高揚し
わけのわからない言葉を繰り返します。
もう 人間を超えた姿を見て理解できない不安と
逃げ場のない絶望感に満ちていました。
それでも入院中にたまに家に戻る家庭外泊が
赦されたときは、いつも緩やかな症状に戻っていて
希望の光が差しました。
いのちの実相 3
旧サッポロビールの工場跡地(現在のイオン)近くに
JR中央線が通っていて、大きな道路に鉄橋がかかっています。
今から50数年前は、まだその橋脚に人が上っていけました。
小学生である私たちは、近くの鶴舞公園での遊びの行き帰りにその橋脚に
よじ登っては飛び降りたりして肝試ししました。
どうしてだかわかりませんが、そんなある日、サッポロビールの
長い長い塀を見て思ったのです。
「城のような家を建てる」
小さな子供の夢だったのかもしれません。
自宅は子供が増えて、家が手狭になったので、お風呂や部屋を改装して
まだ2~3年しかたっていなかったのですが、家を壊してビルを
建てるんだと、突然に強く思いました。
恐る恐るですが父に相談したら「それはいい!」でした。
男二人の同意は強いエネルギーとなり、女性群は仕方ない感じでした。
1987年に貸し事務所用と自宅用のビルが完成しました。
8階建ての8階の自宅ベランダからの町の眺めを見下ろしたとき
突然に「これが城?」とビルは小さいけれど幼い頃の夢が蘇り、
達成感に満たされました。とても幸せでした。
私が39歳、娘は中学校に入学する年齢となっていました。
そしてその5年後、17歳の正月に娘は発病したのでした。
いのちの実相 1
長女Sが今年6月18日の夜に息を引き取って、今生の人の一生を閉じました。
この世では40歳少し足らずの人生でした。
世に言う77日を8月6日に終えて忌明けとなりました。
彼女のことや自分のこと、また小さな時からのできごとを
すべてに差し支えのないことだけ(笑)を少しずつお話させていただきたく思います。
といっても 目に見えて感じることはすべては私のことかもしれませんが。
またただ今までの現実の人生で起きたことをお伝えすることで、
私の感じる「いのちの実相」を少しでもお伝えできればとても嬉しいです。
このブログは公開をしていないので、このブログを訪問くださる250名ほどの
お方たちと、私の人生を共有させていただくことをお許しください。
人ならば、誰でもその人しか体験できない、たった一つの人生を
送ることになります。あたりまえのことですが、 その人生の中でどうして自分だけ?と
思うようなことがらがどなたにでもあることでしょう。
娘は高校2年生の冬に精神が不調になりました。
わかったその日その時がその後の私の人生の大きな転換点となりました。
それは久しぶりの私の実家の親戚との旅行中にわかりました。
愛知県三河蒲郡にある竹島をみんなで歩いて一周したあと
浮かない表情の娘に大丈夫?と声をかけました。
「お父さん 私きのうもぜんぜん眠ってないし、3日間まったく
眠ってないの。景色がぜんぶ灰色に見えてちっともきれいじゃないの。」
と訴えてきました。
異常と直感しました。
そして長い長い幻の旅が始まりました。
娘が亡くなったことで、今の私の心に、長い間疑問であった「いのちの実相」に
ついての確信が生まれました。
その確信は娘がくれたプレゼントとなりました。
娘への感謝をこめて、ものがたります。
いのちの実相 2
アルバイトは二つでした。
はじめは雪印ローリーの配達。
それをやめたら次はM新聞の配達でした。
ふたつのアルバイト中にとても心に残る思い出があります。
ひとつはローリーの配達で初めて一人で配達した朝の
できごとで店主の方の広いお心を感じました。
初めての日、ローリーを積んで少し自転車で行ったところで
転んでしまって、ローリーがグシャグシャになったのです。
店主の方が、泣きながら店に戻った私に最初にかけた言葉が
「まーちゃん 大丈夫だったか?怪我しなかったか?」だったのです。
もうひとつは新聞配達のお客様に受けたご恩です。
小さな心使いが人の心をやさしくさせることを知りました。
何より新聞配達を終えたある日の事故が一番の印象です。
いつものように松坂屋から家へのゆるやかな坂道を、
仕事を終えた軽やかな気持ちで自転車で下っていました。