セカンドオピニオンは、患者にとって一人の医師だけでなく
他の医師の意見も聞くことで、何か新たな解決法を見つけていくものです。
でも話は知っていたものの、そのような言葉が自分の
深層心理から聞こえてこようとは、思いもよりませんでした。
午前3時必死でパソコンでの検索を始めます。
「精神科 セカンドオピニオン」
そんななかで分裂病と昔から言われていた人は100人に一人いる。
薬漬け医療の精神医療でのひどさは世界でも日本がトップクラス。
向精神薬の多剤投与(3つ以上の薬)が台湾1%、香港0%、中国1%
韓国20%に比較し日本は40%となっている。
そのようなことを知ります。
日本では症状が起きたらそれを抑える薬を出し、また新たな症状には
それを抑える薬を追加していく。かぶせていく。
要するに減薬治療はほとんど存在しない。
パソコンでさまざまな薬に関すること、精神医療にかんすることを
検索しますが、セカンドオピニオンに関する医師はその時点では
愛媛のくじら先生のみが見えました。
双方向のネットワークで患者相互の理解を深め、
情報を共有し、解決策を探っていく。
くじら先生は的確な処方を提案し、変化があれば変薬し、すべて
減薬の方法でもって、最小の薬で通常生活を送ることができるように指導されます。
くじら先生は現在現役でなく、一線から身を引かれています。
ネットも閉鎖されたままです。
著書があります。
精神科セカンドオピニオン―正しい診断と処方を求めて (精神科セカンドオピニオン)
著者 笠陽一郎 先生はご著書を世に問われてから、医学会からも、
各方面からもおおいなる妨害を受けられたようです。その結果、
ネットを閉鎖せざるをえなかったのです。
私は本当に最後の方にぶら下がった相談者でした。
正義感強く、真実を伝えたいという先生の真摯な思いが、伝わってまいります。
私は当時過去17年間の娘に関する情報を必死でネットに向かって
先生に向かって打っていました。
午後5時に膨大な文章を先生に送りました。
あとはただ待つだけの心境でした。
セカンドオピニオンがどんなものか、どれだけ真剣に、見もしない相談相手に
対応をされるのだろう。
心も体も疲れきっていつしか眠ってしまいました。
いのちの実相 15
2006年6月6日以来、私の人生は娘一色となりました。
いやその前の2月の飛び降り以来といってもいいでしょう。
親の責任とかというような義務を飛び越えています。
人は何故ここに生まれるのか。
そしてさまざまなことを何故体験するのか。
結局はわからないので、わかりませんと言うしかない。
でも分からないがゆえに少しでも機嫌よく生きようじゃないか、
それがこれまでの結論です。
原因が意識なら結果は現実。
その中にはもちろん病気も入っている。
でも原因である意識を生み出す心が壊れていたらどうなんだ。
ある人は、心が壊れている人はもう一度やり直すしかないですよ、と言います。
この人生をもう一度。
このような人間界の人生をもう一度。
ごめんです。
もうよいのです。
そしてそれはもちろん娘にもしてほしくもない。
今やる。!
必ずやる!
やり遂げる。!
不明なことをそのままにせず、もうすこしましな答えを得たい。
決して分からないかもしれないけれど、きちっとしたい。
そんなふうに思うのでした。
そして正月を病院で過ごし、2007年2月の末に退院にまで快復しました。
天音天画 140826
うつる
まわる
しきさひ
さひの
はなもよふ
いろもよふ
こだひ
にしきの
いろ
あわせ
いのちの実相 12
お隣さんは驚いていたようでした。
突然に屋根に何かが落ちてきたのですから。
そのせいかこちらの「開けてください。!娘が落ちました。!」
という呼びかけにも、ドアを開けることができなかったようです。
一刻を争う・・、途方にくれて、そう思いどこか屋根に上れる場所を探しました。
3件ほどが棟続きの平屋でしたので、そのはずれに行き
ブロック塀を登ろうと思い移動しました。
その場所について塀の下を見ましたら、なんと娘がそこに
横たわっていたのです。??
落ちた屋根は瓦屋根で8階から1階の屋根に落ちたのですが、
幸い木造の屋根がクッションになり足で天井裏を蹴破っただけだったようでした。
娘は朦朧とした状態で、瓦屋根ずたいに10数メートルをよろよろと歩き
地上に飛び降りたようです。
発見して、娘に呼びかけている時にちょうど救急車が着き、
救急隊員の方が応急処置をして、N病院に搬送となりました。
1ヶ月ほどの入院をしましたが、どこも骨折はなく
かすり傷程度の怪我ですみました。
落ちた高さのことを考えますと、奇跡としか言えません。
お隣の方に謝罪し、その日のうちに天井裏と瓦屋根の復旧を
させてもらいました。長くお隣さんとはあまりご縁がなかったのですが、
この日を境に仲良くさせていただくようになりました。
「このままではだめだ!もっと関わってもっと学ぼう。」と強く決意しました。
いのちの実相 13
S先生は気の達人です。
多くの難病を治した実績のある方です。
またお料理もとてもお上手で、自らつくり、患者さんに
ふるまわれました。
病院とか、薬とか、カウンセリングとかのすべてを信頼することが
できないまま、最後の癒しの方法にかけてみようと思ったのです。
娘は先生に会ったとたん、とても嬉しそうな顔をしました。
あとで聞きますと、なんだかなつかしい気がしますと言いました。
先生の助言もあって、不明なままに、薬を減らすことにしました。
慎重に行い、症状がもとに戻りそうになるとまた量を戻すことにしました。
気の治療や、心のこもった食事の成果があってか少しずつ
良くなっていきました。
また薬の量も、0を目指して急ピッチに減らしていきました。
リバウンドでしょうか。
幻聴や幻視を訴えるようになりました。
それでも必死の家族みんなでの見守りで徐々に快復していくかに
見えました。
そんな時に、同じようにS先生の治療を受けていた家内が
治療院に通う道で追突事故を起こします。
幸い相手の方や家内になにも怪我はなかったのですが、
それを機に、家内は運転ができなくなりました。
なるべく心や体を尽くして娘の快復の助けになりたいと
誰もが思っていました。
激しい日をなんどもくぐりぬけ、その年のゴールデンウイークも
なんとかみんなで過ごしました。
病変を気にかけながらも快復という希望を見て
毎日を過ごすことができました。
しかしながら3ヶ月が経過した6月のはじめに強烈な
リバウンドが来て始終だれかがそばにいなくてはならない
大変に危険な状態になってきました。
そして一週間が過ぎ、忘れられない2006年6月6日がきました。
いのちの実相 10
二度の自宅内での飛び降りも,何かを試すような感じがしていました。
幸いにも二度とも大した怪我もせずにいたのです。
ただやはりいずれも二ヶ月ほどの入院を余儀なくされました。
薬は増える一方です。
多剤処方で何がなにやらわからず、
まるで薬を食事のように服用しました。
娘の様子はもうとてもそれまでのようにアルバイトができるような
状態ではなくなっていました。
それでも何か自分で誰かの役に立ちたいと
切に願う娘は、かなわぬこととは言え「よくなったらまた働くよ」と
口癖のように言うのでした。
自分の存在を 何かで表したい一心だったのでしょう。
私はといえば、大震災の少し前の体験に魂が打たれ、
いまだにわからない旅を続けることになったのです。
ただすべてにそれまでの生き方から大きく変更をすることになります。
震災の1月17日から五日後の22日、毎月22日にうかがう神戸三田の
鏑射寺(かぶらいじ)への鉄道であるJR福知山線がその日に開通となりました。
震災の後なのですが、出かけることにしました。
震災後すぐのその地の風景を車窓から見ていました。
大きく傾いたビルディング、アパート、マンション。
ほとんどが青いシートで覆われた屋根の家々。
文明がこんなにもはかないものとは、と心底思いながら、
物質のはかなさを目に焼き付けました。
鏑射寺は瓦一枚もずれていませんでした。
一日前に震災を予知した中村公隆和尚は、震災の前日に
神戸近郊に住む檀家の方々に電話しその日中に神戸から
離れるように指示しました。
檀家の方々は一人のけが人も死人もなかったようです。
まことに不思議をここでも体験させられます。
未来が今にあったのです。
いのちの実相 9
自分しかなくて また自分さえない 感覚でもなく
ただ そのことが私たちの現実感とはまったく
かけ離れた それでいて何にも変えがたいもの。
ただもう 嗚咽しかないもの。
そしてそれであればこの現実の何をもはるかに
超越し、しかも私たちの知るいかなるものとも比較することのできないもの。
まったく不変であって、しかしながらものすごく躍動し、ものすごく湧き出るもの。
そんなわけがわからない表現でしか言葉では言えないのですが。
自分はそこのそこに繋がっていて、しかもそこのそこそのもの。
さらに誰でもが、まったく同じなんだということ。
どんな方でも、まったく同じなんだということ。
未来がここにくること。そしてまた物質はないということが実感として
理解できる出来事にあいます。
それは皆様ご存知の長崎の「あんでるせん」という喫茶店でのさまざまなことです。
ここでは未来の出来事が今起きて、しかも物質が消滅し
本人しか知らない場所に瞬時に移動(テレポーテーション)します。
またバラバラになった金属がほぼもとの形に戻ります。
そして塑性であるプラスティック製のライターがねじりあめのようにまがります。
割れないのです。
さらに本人の姓名や生年月日さえ知られてしまいます。
いのちの実相 8
時間の不思議や自分の生命のふしぎが目前に迫っていました。
先のセミナーでは父親に対する憎しみと母親への哀れみのふたつを
完膚なきまでに、自分の心から追い出した後に体験がありました。
父親と母親がキン斗雲(きんとんうん)に二人並んでしかも笑顔で
手を振っていました。そしてその雲は二人を乗せたまま
かなたへと消えていきました。
ああよかったと思いました。
そして二人は仲良しだったんだとも思ったのです。
二人はわたしのために演技をしてくださった。
わたしを強くするために、父は凄い仕打ちをしてくださった。
ふたりに、ありがとうと言いました。
その後外に久方ぶりに出ることを赦されました。
鳥の声、雲の流れ、そして柔らかな風。木々さえも
何か生き生きとしていました。
自分のそれまでの体験にはない外の感覚でした。
今その意味がわかります。
自分の意識が作り出したすべての風景でした。
硬い堅いエゴの一部がはがれたとき、その心で見る風景だったのです。
そしてよく言われる過去生があるかどうかはわからない。
ただ浮遊するおばけに意識がのっとられただけかもしれません。
そんな隙間のある、自分の心かもしれません。
時間が系列的なものではないことははっきりとしました。
そして自分とは何か。
ただ肉体だけではなくて、なにか連綿と続くいのちがあることは
わかりました。でもその意味を理解することはできないままでした。
そして、阪神大震災の年のはじめに、その圧倒的体験が突然におとずれたのです。