随想 伊路波村から〜空気銃と祈り 001109

空気銃と祈り 001109
2000年11月9日 記

11月1日、仕入先会社会長の葬儀のため東京に出向いた。
寒い東京だった。

浅草東本願寺。盛大な葬儀は午後3時終了した。
名古屋から参列した問屋仲間のKさんとSさんに出逢った。
一緒に帰名することにした。

ひかりの11号車に乗り込んだ。グリーンが10号車だから、
ここは居心地がいいからだ。指定をとっていなかった。ドキドキ
しながら席の埋まるのをみていた。仮に陣取った13番のABC
席だけが横浜を過ぎても指定の人はみえなかった。ラッキー。

A席が私、B席がSさん、C席がKさんと座り、宴会が始まる。
ビール、ウイスキー、酒。酔いながら名古屋まであっというまの
時間だった。
実はSさんは、3年ほど前、倉庫と事務所をほぼ
全焼という体験をされた。そしてKさんは先の名古屋西区の
都市洪水で大被害を受けられた方なのだ。まさに火と水。
まるで火水(かみ)の横におかれた凡人の私であった。
話ははずみいつも笑顔をたやさない。そしてあいさつを
率先してされる。

火のSさんの幼少期のこととなる。
彼は62歳、還暦前から赤が大好きな方で、
今日も赤のネクタイにチャッカリ喪服が似合っている。

Sさんの小学校4年の時のできごと。空気銃がはやった頃の話。
Sさんは遊んでいる時、草むらの中の同い年のこどもの頭を
誤って打ってしまった。おどろいて、その子の家に知らせに行く。
おろおろして、どうしたらいいかわからない。

親御さんが、その子の親に謝り、子供等の事件であり穏便に話し
がついたようだった。打たれた子供には重度ではないが障害が
でた。Sさんは父親に言った。「僕はあの子にどうすればいいんだ
ろう。」父は応えた。「子供のお前に何もできない。
あとはワシがやるからお前はあの子のために祈りなさい。」と。
そしてSさんは小学校4年のそのときから62歳にいたる今日迄、
仏壇に水と米を毎日そなえる。そしてその子の為に祈ってきたの
である。いつも笑顔で元気でとっても年令62歳にはみえない
Sさんにそんなことがあったのだった。

翌2日、ある集まりの二次会の寿司屋さんでこんな話をしていた。
そして翌日、この話をきいてみえたT子さんからメールを
いただいた。グッときた。
                     
 山田さんがお話された空気銃のお話を聞きながら、私は母の
 ことを思い出していました。すごく前に母がサラリと
言ったことを 自分の頭の中で膨らませてそれを事実と
思っているかもしれないので、そのとき言いませんでしたが、
今朝母に確認してわかりました。

 そしてもっといろんなことも。
 実は、母も昔、空気銃で頭を撃たれたことがあるのです。
近所の子供が 二階から遊びで撃っていたのが、
母の頭頂にあたって、気を失って倒れた そうです。
そのとき私がお腹の中にいたそうです。

(それは今日知りました)大量の出血がありそして弾が
頭に入ってしまったため手術をおこなったそうです。
 近所の人や、親戚はすごくおこったけど、相手が子供で
将来があるから ということで、父も母もおおごとに
しないようにとまわりの人に頼んだそうです。
幸い目にみえるような後遺症はありませんでした。

 随分前に母が「寒いと空気銃でうたれたところが痛いわ」と
サラっといったのを聞いてすごく驚いて、
どんなことがあったのか聞き出してもっと驚いて
「母を撃った人はなんていうやつだ!」と
すごく頭に来て、「ひどい人だね!」と私はおこってましたけど、
母はニヤニヤするだけでじれったい 気がしました。
昨日の山田さんのお話を聞いて、撃っちゃった人もすごく
苦しんでいたんだなと思いました。

そんなこんなで今朝は空気銃の話題だったのですが、
母は「あの子も何歳になったかなあ。あんたよりも年上だわ。
今何やってるかなあ」と言っていました。
T子拝                                     

随想 伊路波村から~自分への手紙

修身教授録「自修の人」の項を他の方が輪読されるのを聞きながら、
まったく内容と関係がないのに、母の顔が浮かんだ。
そして感想を述べる時間にまたも慟哭していた。

なさけないような自分の最後の、残り物。?
それが5月18日、早朝の四日市読書会でのこと。
実は4月のはじめ、大阪家庭裁判所から
封書が届いた。
「遺言書検認」の参加要請通知だった。
「何か悪いことしたんかな。?」って
すこしドキドキしながら開封したら、
書類には見知らぬ人の申し立てがあった。

兄と姉に電話した。
関東の妹からは電話があった。
「テレビドラマのような話とちがうやろか。?
おもしろいから行くわ。」と姉。
兄は一緒に行こうと言った。

妹からの電話には、
「遠いから、欠席でいいよ。あとで知らせるから。」と返事をした。

見知らぬNさんという女性は。
遺言を残されたご主人の奥様とわかった。

除籍謄本を取り寄せた姉は、物語のように
不思議な人間の関係を前もって知ることになる。

姉との電話口での会話の中で、もうすでに
いのちの本質はこれから知るであろうことを、
わかっているかのように、震えていた。

「お父ちゃんはな、戦地に行く前にな、
初めて自分の父親に会いに行ったみたいなんや。」

父は母との間に、4人の子をもうけた。
その中でM姓を名乗ったものは一人長男のみ、
こちらは養子にいき、姉妹は嫁いだ。
父はきちんとして結婚で生まれた
子ではなかった。

そのことはずっと前に知っていたけれど。
5月10日、近鉄で大阪に出向いた。

兄と二人だけで、電車での旅なんて生まれて初めてだ。
頭が真っ白な今年で64歳になる兄。
M家では父代わりの大事な柱だ。
なんせみんな父親と一緒に暮らしたことがないんだから。
父は別の場所で、別の家族と共に暮らし、
命を終えた。もうそれから幾年になるんだろう。
はっきり覚えていないけれど、
母が逝って6-7年過ぎたころに旅立ったから
もう16-7年になるんだろうか。

新しく会社を興し、事業に精を出していたころ、
父がなくなった。
「僕には父親はいない。」
かたくなな心が、誰一人にも葬儀のお知らせをすることを
避けさせた。

養子として入った家の父母にも来ていただくことを
遠慮していただいた。
兄の関係のものすごい数の参列者に比較して、
こちらは誰もみえない。

自分でもすさまじいばかりの固い心を
感じるほどだった。
こころのけじめだったのだろうか。
母が名古屋大学病院で、すい臓摘出の手術をした後日、
見舞いに来た父とひさしぶりにあった。
父が帰ったあと、母に聞いた。

「おとうちゃん、ごめんって言ってたか。?」

母はなんにも言わなかった。

今度の大阪行きで過去のすべてが今に来た。
家裁の待合室、兄と姉と3人で待つ。
同室には大阪の人々だろう、きつい関西なまりで
関西での鉄道事故のことを、ほほえましく話しあっている。
15分待つ間に、なんだかこちらとも打ち解けていった。
書記官の方が、開始を告げに待合室にみえた。
全員がいっせいに立ち上がった。
あれ一緒だったんだ。(笑)

書記官の方が示す順番どうりに着席。
父の父親(祖父)には5人の男ばかりの子供が
いた。本日は最後の子供(5男)さんの遺言書だった。
そして戸籍では実子として入籍を許された父は
次男だった。
この5人の男性から生まれた子供は15名。
びっくりした。

一気に10名もの血縁の存在を知ってしまったのだから。
もし5男さん(おじさん)に子供さんがみえたら、
決して会うことがなかったであろう人々。
「男の一滴って  すごいなあ。」
みんなでおじいさんのことを誉めた。(笑)

おそらくよほどのことがない限り、
2度と会うことがないであろう人々。
けれども血は確実につながっている。

父母をとおして最後の血縁のおじさんがなくなったのだった。
実は父には母とのあいだにではない男の子が
一人いる。
どうしてだか戸籍には、いったん離婚届けをだした父の
届けが受理されたあと、裁判所で離婚無効の訴訟が起こされ、
無効が成立したと記載がある。

おそらく父は離婚したかったのだろう。
そして母は必死に抵抗した。
母の死後、その男の子をM家の戸籍に
認知する手続きを兄がした。
立派だったと思う。

父は自分がされたように、
自分も同じことをしたのだった。
母は結婚前に言った。

「ええか、 女はつくってもなんにもいえへん。
けどなあ、子供は絶対つくったらいかん。」

ふだん無口な母にしてはものすごい決意の
言葉だった。

なぜだかやっとわかった。
血潮の恩が体中かぶさってきた。

なぜこの父と母を選んだのだろう。
いったい何を体験したかったのだろう。

父はなんて いやな役を買って出てくれたんだろう。
頭では手放していたはずの父親への思いの
最後の重しがカタッと外れた気がした。

父親との唯一の思い出。
高校時代アルバイトを頼まれたのだった。
寒い日だった。
父と一緒に車に乗って、
タクシー会社の業界新聞の購読費の集金。
しかもなんだか貰えにくい会社ばっかりだったと
あとでわかった。

学生服だけでコートがない姿を見て、
「コレ着てきなさい。」と太い編みの、ドテラのような
服を渡す。

恥かしかったけど、寒かったから着る。
父は集金会社から少し離れた場所に車を
止めて、こちらの首尾を待つ。

ドキドキしながら、大抵は二階にあるタクシー会社の
事務所を訪ねる。

「集金にきました。」と言うと、
すぐにはどこも払ってくれない。
なんだか事務員さんと所長さんとのヒソヒソ話の
あとで払ってくださる会社があったり、
「もう何ヶ月も前に断ったんだから、払えない。」
といったりのどちらかだった。
それでもお金をいただけた時は嬉しくて、
父の待つ車に飛んでいった。

二人でちっといたずらしているような気分だった。
たくさんのアルバイト料もいただいた。

小学校三年生から中学時代まで、
毎週のように生活費を受け取りに出向いた、
父の家の前を、今も通ることがある。
あんまり行きたくないことだったけれど、
適任者はこちら。
何時間も父の帰りを家の前で待ち続け、
やっと会えたら、「今日はだめ」。

25円の路面電車の往復キップの帰りの半券を
落としてしまって、太閤道りから瓦町まで歩いたり、
終点の覚王山まで眠ってしまって、
車掌さんに新栄町まで送ってもらったり。
それでも1週間分の500円をもらえた時の
家族の喜びが嬉しかった。
誰にも秘密にしておきたいことがある。
そう思います。

絶対に言えないこともあることでしょう。
葬式を誰にも知らせなかった非情の子。
入院中にやさしい言葉をかけてやれなかった。
末の娘の顔を見て、死んでいったね。

兄は立派な人生といわれる人間になりました。
もうあと3年働くそうです。

姉は家族で花屋さんしてます。
妹は家族仲良く、今はルンルンです。
僕は元気です。

自分への手紙として、書きます。
ほんとうは、なるべく隠しておきたいことです。
お父さん、ありがとう。
おかあちゃん ありがとう。

平成の最後の年 兄と姉は旅立った。

随想 伊路波村から~川奈ホテル 030512

川奈ホテル 030512
毎年この時期に開催される、プロゴルフ競技の
フジサンケイクラシック。

今年の優勝者はアメリカのハミルトン選手だった。
テレビ画面の中での優勝インタビュー。
彼は何度も胸を詰まらせていた。
5年ぶりの優勝。

奥さんと娘さんがアメリカへ帰り、
単身赴任のかたちで、日本ツアーに参戦している。

長い間勝利がなかったこと、
そして家族と離れて暮らす孤独感にたえた
歓びと感激だったのだろうか。

選手はこのフジサンケイクラシックの時は
ほとんどが クラブハウスでもある「川奈ホテル」に宿泊する。
「川奈ホテル」はゴルファーなら一度は宿泊して、
ゴルフをしたいと夢見る場所。

このホテルには楽しい思い出がある。
今から15年ほど前のこと。4人のゴルフ仲間がいた。
4人は仲がとてもよくて、月に一度はいっしょにプレーした。
そして年に一度はゴルフ旅行で宿泊2ラウンド。

徹底的に足の引っ張り合い口撃をしてチョコレートを
奪い合う、楽しい仲間たち。

最初に70台を出した人をみんなでクラブ(飲み屋さん)に
連れて行こう。とかシングルになったらお祝いしよう とか
約束していた。

4人がみんな100をきるように丁度同じ時期になった。
いつかは川奈へ。 夢が叶った。

川奈ホテルはさすがにクラシックな建物。
部屋も落ち着きのある白壁の部屋。
そして到着の日、初ラウンド。
さすがに川奈コースは難しい。
ケチョンケチョンのスコアで一日目はみんなに
チョコレートも総とられとなった。

夕食はとてもレストランで食べる余裕がないので
町にでて、地元の海のさちでたくさん飲んだ。
ゴルフの話はキリがなく、楽しい。

ひそかにみんなが良いスコアと勝つことを狙って
川奈ホテルで就寝。

翌日、意気洋々とラウンドにでかける。
川奈の風は聞いていた以上。

逆風のテイーグランドでのナイスドライバーが100メートル。
ハーフを終えて昼食。レストランもクラシック。

給仕のボーイさんが真っ白な正装、蝶ネクタイすがたで、
3人直立して我々の食事を見守る。
客は我々一組だけ。

カレーがたしか2500円くらい、ビールは小びんで1200円だったか。
ドキドキしながらみんながカレーを注文して、楽しみのビールを小びんで飲む。
追加をしようとすると、みんなの冷たい視線。(ワリカンだから)

ボーイさんたちの姿がカレーをのどに通さない。
クスクス笑いながらの食事。 川奈はすごい。

昼からの最後のハーフラウンドも惨めなスコアで終了。
結局は負け頭となってしまった。

伊豆からの帰路、二日間の話題に花が咲く。
ゴルフをし始めて一番楽しいのが100を行ったり来たりする頃。
そのもっとも楽しい時期を、気のおけない仲間と川奈へ
行けた歓び。

そのうちの一人はもうこの世にいない。
若くして病に倒れた。

そして川奈から7年後、一人がシングルになり、
残りの2人はともに70台をだした。

そして自分はゴルフをぴったりとやめた。
もう昔のゴルフ仲間との付き合いはない。
フジサンケイクラシックは四人の仲間の思い出である。

随想 伊路波村から~資 源 030512

資 源 030512
自分にとっての資源ってなんだろう。

10年前、懸命に資源を思い浮かべたことがあった。
100ケ。

自分の長所と思われる事をまず浮かべた。
そして自分のまわりの人々のいいところ。
家族 職場の人たち、地域の人々、友達、
同窓生、ネットワークの人たち、などなど。
さらに自分のおかれている環境に感謝した。

考え考えてでも80ケ。
はたと詰まった。

そして早朝の窓から、ふと外を眺めた。
そしたら涙が出てきた。
なんという傲慢。
なんという浅はかさ。

思えば今活かされているこの今という
空間に存在するすべての全てが
自分にとっての資源じゃないか。
無限のものが資源だった。

こんなことに気づかない自分だった。
人生のあらゆる舞台では、この事を忘れやすいもの。
湧き出た感激こそ本物だ。

どんな人が目の前に現われても、
資源と呼べるようになるには遠いかも知れない。
だけれど、一歩一歩歩いて行こう。
生を全うする頃、教えが湧き上がるかも知れない。

随想 伊路波村から~ポックリさん 031212

名古屋市の東南に八事興正寺というお寺がある。
通称ポックリさん。

昨夜、友人でもあり同業者の社長でもあるMさんの
お母さんの通夜のため、車で葬儀場へ向かう道の途中、
そばを通って、思い出していたことがある。

11/7 は家内の誕生日。その数日後 ハンケチの入った
タンスの引き出しを開けた。

そこに 一通の封筒。表書きはM子さんへ。
家内にあてた おばあちゃんの字。

なにげに 中を見てみた。

中には数枚の福沢諭吉さんと おばあちゃんからの便箋。

「いつも 家のことや会社のこと そして子供たちの世話など
たくさん 世話をかけて ありがとう。
いまのところ私たちは 身体の面倒をかけずに済んでいて、
安心しています。
これからも 迷惑かけないように ポックリいくように
八事に毎月おまいりに行きます。
からだに気をつけて 頑張ってください。
少ないけれど、 なんでもいいからこれを 自分の好きなことに使ってください。」

82歳と78歳のおじいちゃんおばあちゃんコンビは健在だ。
母親の実の娘を思う 気持ちが伝わってきた。

養子となって もうすぐ26年がたつ。
実の父母との関係の期間にもうすぐならぶことになる。

丁度26年前 おじいちゃんの先代の意思を継続するために、
新しい会社がスタートした。
だから ふらふらの事実上の3代目。

この26年間で絶頂と大谷間を経験することになった。
その間本業にいそしむ間は ほとんど事業に口をはさまず、
お金の心配をまったくかけずに、事業に邁進させてくださった
おじいちゃん。

娘や孫には口うるさく映るらしいが大事な時には、いかんなくフィクサーぶりを発揮してきたおばあちゃん。

たいした病気もせず、ここまでふたりで元気に生きてきた。

世の中の変化とともに 事業家にとっては 事業の舵取りが
楽しくも難しい問題となった。

そしてふくらんだ全てのものを 健全にしぼませ、健康体となって、
新しい企業として再出発をすることが、事業家の命題となった。

結果として残された負債は 事業家の責任によって零にすること。
この当たり前のことが できていない世の中なのだ。

そのツケはこの国の人々が 負うことになる。

「意識のネットワーク」などは 父母にとってはまったく関心のないこと。
それよりなにより 健康で安心して 家族みんなが仲良く、きちんと
生活して欲しい。そしてひ孫の顔を 見れるなら見たい。
それが老父母の ささやかな願いなのだろう。

この8年 会社は0かマイナスを繰り返した。
累積した負債は会社のためにはもちろん少ないにこしたことはない。

今年 個人的な会社への貸付金の一部を 放棄することにした。
そのことをすでに退役していて 債権者でもある老父母に告げた。

その数日後 父母から 話があるといわれた。
茶の間で おじいちゃんが おずおずと語る。
「この前聞いたことだけど、私たちの貸付金全部
もういいよ。 お前たちは若いのだから そのままに
しておけばいい。」

なにか仕事のことで 意見があるのだろうとばかり思っていたので、
ポカンとすると同時に、申し訳ない気持ちで一杯になった。

「ありがとう。 お客さんも 社員さんも 救われます。
新しい企業のかたちは もう見えつつある。
きっと安心してもらえる時が来るからね。」

そういうだけで せいイッパイだった。

実は時代はいままでの企業のあり方を 欲していないかもしれない。
そして利益と成長と安定が企業の大方針だったのだが、
むしろ与え合いが基本になり いのちに共鳴する企業だけが
存在を認められるかのように感じる。

私たちが どんな時も輝いてあること。
そして老父母に迷惑をかけず 安心して暮らせる空間を
保つこと。 そんなことが人生の終盤を迎えた父母に
たいする ご恩返しであり 親孝行なのだろうか。

ポックりさんの急な坂道。

支えあって生きてきた父母が、ほっと息つく場所かも知れない。

随想 伊路波村から~人は病によって死ぬのではない 030911

人は病によって死ぬのではない 030911
10日ほど前あるお客様が会社にみえた。

ほんとうに久々のご訪問だった。
ガンの宣告をうけて7ヶ月。
もう手術もできないと、お医者様から
サジを投げられていた方で、
7ヶ月間「太古の水」を飲みつづけて
ガン細胞が消えてしまった方である。

「元気になったよ 仕事もできるようになって
医者が こんなこと初めてだと 驚いている」

そう お元気におっしゃって お礼を言われて
帰っていくのを お見送りした。
昨日朝 その方の訃報が届いた。
ああ  あの日 ご挨拶にみえたんだ。

9日(一昨日)仕事をしてみえて、
気分がわるくなり、病院へ、そのまま
旅立っていかれた。(肺炎とか)

ガンで苦しみながら 病床生活を送ることは
まぬがれた。あっけないお別れだった。

25年前 新しく創業した頃、お客様を廻った。
かばんの中に金きりはさみをイッパイつめて、
なんとかお取引をはさみから始めていただけないか
お願いして廻ったのである。

このお店をそんなある日の最後に訪れた。
店の先代社長さんとこの現社長さんが応対
していただいた。お願いすると

「かばんの中のはさみ全部の種類おいていけよ」

と言ってくださった。
その日から 会社で一番の売上のお客様になった。
暖かいお言葉に 溢れるばかりの人間の情を感じた。

その日から25年 先代さんが亡くなり、
現社長もこうしてお別れの日を迎えた。

70歳をこえた年ごろ。
「もう仕事も 頼まれただけしかしないよ。
何をやっていいのかわからないから 遊んでいる」と
明るく語った 思い出の日。

人は決して病で死ぬのではない。
そのことの確信をいただいた社長さんの死。

仕事を継ぐ子供さんもなく、
どんな思いだったのだろうか。

今夜は彼の通夜である。
ほんとにお世話になりました。

随想 伊路波村から~支援者とは 030501

岐阜のMさんから一通の手紙が届いた。

Mさんがこの4/19岐阜の羽島駅ではがき道の坂田さん
ご夫妻とお逢いになった折、みあげにいただいた書付が
入っていた。「リーダーについての覚え書き」(未完)とあった、
坂田さんが奈良のはがき人の集いの朝、書き記したものらしい。
「ほんとのリーダーは人知れず、他の人を支え、援助する人だよ!」
坂田さんの甲高い声が聞こえるかのようだ。

読ましていただくと、できていないことばかり。
「できていないことばかりだね」と家内にいうと、
「全部できたら神様。この世にはいないわよ。」
家内はやっぱり リーダーです。
そしてみんな自分の人生のリーダーで、主人公です。

「リーダーについての覚え書き」(未完)

*最近リーダーという言葉をよく聞きますが、真のリーダーとは、
支援して止まない人のことです。

*支援者とは たえず縁ある人の幸せを考えて願い 自分のことは
あとまわしにする人のことです。

*支援者とは、組織をもたず、権力に近づかない人です。

*支援者とは 良いことをしているとは気づく人がいない人のことです。

*支援者とは 夫婦仲がよく、家族を大事にして、一旦ことあらば
縁ある人様のために全てを 命までも投げ出せる人です。

*支援者とは 集落のすべての人にいいことは譲り、自分は後ろから
とぼとぼとニコニコわらいながらついていきます。

*支援者とは 租衣租食で、一汁一菜が良いと思っている人です。

*支援者とは 愚痴悩み悪口などは 母親の胎内に置き忘れて
きた人です。

*支援者とは すべての物を大切にして使いきり 声をかけて
対話して 喜ばせて使います。

*支援者とは 人生を卒業して四十年、五十年過ぎて いい人
だったのだと気づかれることもあります。

*支援者とは 時として妻に(夫に)逃げられることもありますが、
全財産をわたします。

*支援者とは 水を大切にする人です。

*支援者とは お金を大事にして、喜ばせて使える人です。

*支援者とは 人様が騒いでいようとも ただ一人で自分の信念の
道をたんたんと歩いている人です。

*支援者とは 最下一番下にいて それとなく、すべての人を支えて
いる力持ちです。

*支援者とは 子供からも慕われる人です。

*支援者とは 愚痴などのたぐい一切言わないでたんたんとその道を
歩ける人です。

*支援者とは ほのぼのとした余韻を残す人です。

*支援者とは 人々から忘れられている人です。

*支援者とは どこから見てもにこにこ笑っていて朗らかな普通の
人です。

*支援者とは 偉いところが一つも無くて 子供のように
心がきれいな人です。

*支援者とは たえず本を読み 縁ある人に葉書を書き いつも
人生を工夫している人です。

*支援者とは 掃除の楽しさ深さをつたえている人です。

*支援者とは 自分の根源 親を大事にする人です。

15,4,23 奈良の朝 書き記す。

テネモスミーティング名古屋 1/25 ご報告 その4

釘本さん:イスラエル旅行のマルシェロ神父さんは
りっぱな人です。祈りの人。本気でお祈りする人。
「私のために祈ってください」と言われた。
本気でないと言えない言葉。

ローマ法王は今までの慣習を壊そうとしている人。

どんな人と会うかは意識次第。
ローマ法王が好きだった。

イスラエルに行ってよかった。
イエス様の愛を感じることができた。
飯島さんもイエス様も矛盾がない。

東門が閉じられている。
メシアが現れたら東門が開く。
イエス様はロバに乗って東門から入った。
ロバに乗って戦争する人はいない。

イスラエル、お金使わず。素朴な感じ。
売りに来た人の家庭が見える。
世界の人は一緒だなと感じた。

日本は大きな経済に巻き込もうとしている。
イスラエルは小さな経済がたくさんある。
これからやっていきたい世界。
何かあってもやっていける社会づくり。
みんなの顔が見える社会づくり。

水を大切にしている。
ユダヤ人は日本人に似ている。
お風呂の跡があって、とても似ている。

聖書の預言は絶対。
メシアの出現日にお手伝いできるようにと
2000年前毎日お風呂に入っていた。

ローマ帝国の支配時代、水道管がすごい。(開水路)
前田家の神社に水道管があった。

砂漠なので水を集めて暮らす。
心の底から愛を知るためにやってきたと思えた。
イスラエルで。

飯島さんから言われた「人の意識が読めるか、それが心配だ。」

「愛がゆく」漫画
「天涯孤独の荒くれ男・北条松五郎は、ある夜すさまじい閃光に遭遇、男の赤ん坊を拾う。
松五郎は赤ん坊に「愛」と名付け、男手ひとつで育てていく決心をするが、
「愛」が未来世界から現代に送り届けられたとは知るはずもなかった。
すさんだ大人たちの心を癒す「愛」は、成長するにしたがい、
さらに不思議な能力を身につけていく。
一方、その「愛」を抹殺するために、未来世界から暗殺者が送り込まれる。
いったい「愛」とは何者なのか?  
壮大なスケールと息もつけない展開で描く、愛と感動の物語。・・・」 

コミックを読んだ。「愛がゆく」 のんだくれのまっちゃんが宇宙からの
子供を育てる物語。
マザーから人は生まれる。
未来は家族の概念がない。
心の痛みがない。
愛情をもって育てたら、ものすごい愛の子になった。

二極化が進んでいて、それでも「愛の時代」が来ている。

ユーチューブで見た。肉食獣が草食獣を襲う。
かわいいバンビとか見たときには襲わない。
そういう場面のみ集めたユーチューブがある。

最初にかわいいと思われるあかちゃんは幸いで、
かわいいと思われないあかちゃんはかわいそう。

飯島さんより最近気が付いたこと。

「ただ認める」 「自由意思を出していくこと」

随想 伊路波村から~折り梅 020501

人間は感動を求めて動く動物だろうか。

ロングランとなった映画「折り梅」を鑑賞した。
幼い頃、母と別れた老婆と、痴ほう初期でもある彼女と
ともに暮らす嫁を中心とした、家族の物語。

老婆は幼い頃の母との思い出を語る。
梅をいけながら子に語りかける母。
「梅はこうして折っても花を咲かせるのよ。
梅は強い花なの。」

町に働きに出ていた母はいつしか戻らなくなった。
砂浜で母を毎日まちわびる幼い日々。

大人になって結婚し4人の子供が授かる。
だが早くにご主人を病気で亡くす。4人の子供を
おはりこの仕事をしながら、生活保護も他人の世話も
受けずに、育てた。
(そうだうちの母もそうだったんだ。)

自分のライフスタイルを必死に護ろうとする嫁。
老婆は必要とされていない自分の存在を
知る。

限界がきて老人ホームに行く前夜。嫁は老婆とともに寝る。
そして幼い日のことを知る。
老人ホーム行きはやめていた。

デイケアのお寺で老婆の発表。
「あそこに座っているのが、うちの嫁です。
ほんとによくしてくれるのに私は怒ってばっかりいて、
なんでそうしてしまうのかがわからない。」

嫁と老婆のハンカチの投げあいはまさに心が溶け合う
瞬間。笑い嬉し涙とはこんなこと。

だれだって自分を大切にしてもらいたいんだ。

随想 伊路波村から~聖地巡礼・霊鷲山 050120

平成十年。
インド心の旅(ピュアハートホーム五十嵐薫様主催)に参加した。
マザーハウス、死を待つ人の家、孤児院等をたずねた。
そして訪ねたかったシャカにかかわる聖地巡礼の旅に出かけた。

ガンジス河の夕陽。そして翌日のガンジス河遊覧。
白いお尻がポッカリ川面に浮かびながら
流されていくのを本当にみてしまった。

ハイライトはシャカが弟子たちと共に
最も長期間修行に励んだ山、霊鷲山
(りょうじゅせん)だった。
朝早く、警官の警護のもと、まだ暗い山を登る。
ついそれより二ヶ月程前、五十嵐さんの友人がそこで盗賊に遭い、
いのちを落としたらしい。
五十嵐さんは涙ながらに語ってみえた。

山上、シャカが座して弟子たちに話をした場所につく。
日の出を待ちながら思い思いに岩の上で瞑想をする。
そして帰山の前に野外の祭壇前に全員が
列し、同行のBさん(仏僧)がお経をあげる。
簡単な聞いたことのないようなお経に反応してか、
皆が泣いている。魂が泣いているのだろうか。

この旅を通じて、五十嵐さんが「人間シャカ」(高橋信次:著)で学んだ
シャカの実像を訪ねた場所ごとに解説してくださった。
普通の観光の旅では得られぬ感慨をたくさんいただいた。
ありがとう。インド。
この日からインドはもう一度訪ねたい国となった。