ある道のり~いのちの実相 14 別れと出会い~

「レベル4です。余命3ヶ月です。化学療法が必要です。」
医師の方の決まり文句がありました。

もちろん抗がん剤治療をお断りし、なんとか自然療法で治癒できないかと
思い、さまざまな情報を集めました。

とりあえず、がんの摘出手術は生命に関わるほどだったので
していただくことにしました。
暮れの12月になっていました。

5度ほどの医師の抗がん剤の勧めにも応じず、お正月に退院となりました。
その後の検診も数回で、詳しいCT検査とかはしていただけないままでした。
化学療法をしないということは、医師にとっては治療を拒否していると
みなされ、そのような患者に何故検査が必要ですか、との言でした。
なるほどでした。

直腸がんが見つかったとき同時にあった肺の小さながん細胞の
その後や、直腸がんのその後の状況をしらべることもなく、
9ヶ月が過ぎました。

今回はなんだか楽観していました。
なぜかといえば、結果である肉体は、原因である心が変化すれば治ることが
明確にわかっていたからです。

それで「屋久島の春ウコン錠剤」を主剤として他のものと
併用しながら、心の平安の維持につとめました。

「心が快復してきたのだから、必ず治る。」
と強く思いながらも、心が穏やかになってきたのに
何故体にがん細胞ができるのだろうと、娘の真の心の
状態がつかめないことに不安感があったのでした。

他人のことをどうこうすることは、絶対に不可能。
だから他人の人生を、他のものが語ることさえ意味のないこと。
それまでの学びから至極当然なことを思います。

ただ、親子という特別な関係だから、子を哀れに思う心を消すことはできません。
特に手術後の痛みも泣く、心もますます穏やかになってきた状態に
誰もが安堵していた矢先、肺がんの増殖がみつかります。

9月、学区のお医者さんに診ていただいて、そのことが発覚。
それでもまったくめげない山田家というか、父でした。
ますますこれで背水の陣、ここが正念場と娘と共に病を克服することを
誓っていました。

なぜだか「ファイティン」ということばが、二人の合言葉になりました。
体がつらいとき、力が出ないとき、心が折れそうなときに
「ファイティン!!」と唱和するのです。

家で家族と訪問介護士の方や看護士の方の助けを受けて
娘は、とても懸命に生きたと思います。

「さおりおり」も酸素吸入器が必要になるまでは行き続けました。
5月今度は小脳にがん細胞が見つかりました。

そして平成26年6月18日10時03分静かに母親に抱かれて
息を引き取りました。

自宅のベッドでの、あっけのない最後でした。
最後の一ヶ月間は長い年月、程度の差こそあれ、必ず娘におきた
精神的爆発は一度もありませんでした。

娘は心をとり戻し、今生の体を離したのです。

娘は臨終の少し前めずらしく、絶対口にしない言葉
「お母さん、ありがとね・・・・・ごめんね」を口にし
それを受けた家内は、娘の生命誕生の責任をずっと背負ってきた重荷を
やっと降ろすことができたようでした。

生前の娘との会話

「あのね、人間は肉体だと思ってるだろうけど、ほんとうは
人間は肉体ではなくて、いのちなんだよ。人間は死ぬことがないので、
いのちは永遠にあるんだよ。だから人間は生まれることもないんだけど。」


「お父さん、いつも訳のわからんことばっか言う。
でも人間はいのちだってことはなんとなくわかるよ。」

「だからね、もしね、肉体が終わることになった時には
必ずそのことを誰でも知ることになるので、そうなったら
何かお父さんにサインを出してね。約束ね。」

指切りしました。

二人だけの秘密の約束でした。

「私はあなた」「一体全体」「元ひとつ」このような言葉が
私たちが肉体と思って、全体から分離する心を否定し、
いのちはひとつしかないことを教えています。

そのことをいつもいつも念じ、すれ違う人々にも
自分の心を見るとき、みんなが教えてくれていることを
知ります。

娘は自分そのものでした。
穏やかなる時も、怒れるときも、自分よがりなときも
全体を思いやるときも、厳しいときも、やさしい時も
いかなる時も、その姿は自分を教えていました。

息を引き取り、その夜は葬儀社の方が駆けつけてくださって、
ドライアイスを二日分といって、多めに体につけてくださいました。
亡くなったその夜の娘の顔は、なんだかきょとんとした
驚いたような顔に見えました。

明けて翌朝、娘の顔に大きな変化がありました。
もうその時点で娘は大平安に包まれて喜悦の世界に戻っていました。
私は娘にありがとうと言いました。

その喜悦の表情が娘との約束の答えだと受け取りました。
そしてもう一つ娘は時の不思議を伝えていました。

3人娘の一番の末の娘が、初産のため丁度、里帰りをしていました。
そんな時に長女の葬儀があったのですが、長女が亡くなった日に
産気づき、翌日入院となりました。

朝真っ赤に腫れた目に悲しみが焼きついていました。
ご主人が東京から駆けつけ、ずっと末娘と一緒にいてくれました。

娘の葬儀が終わった21日の夕刻、家族で葬儀の帰りに病院に
立ち寄りました。末娘はヒーヒーとは言いますが
「先生が今日は生まれないと言ってるの。明日促進剤で生むみたい。」
そんなことでみんなで家に帰りましたが私だけは何故だか
「今日の夜生まれるよ。」と笑って言いました。

そして家に戻った夜、ご主人から連絡が入りました。
「生まれました。!!」
初孫の男子、嶺(れい)君が午後10時03分に誕生したのです。
娘は時の不思議を告げ、そしていのちは一つであることを
私たちに残してくれたと思います。
死ななければ普通は分からないことです。

そしてそのことは死後伝えることもできないし、普通はこの幻想世界に
戻ることもできません。

娘のこの世での旅に並走するように、家族のそれぞれの旅が続きます。

他の人の旅は語ることもできず、また語っても何の意味もないのです。
それらはすべて自分の旅だからです。

娘に対して全力投球してきた私の日常は、ポッカリした空洞に
入ったかのように平穏になりました。

平成25年10月から続けていた「奇跡の道」の自己学習が
長い間の疑問に対する答えをもたらすとは思いもよりませんでした。
それは理論や説明をはるかに超えたところにあったのです。

ある道のり~いのちの実相 12 生気への道 3~

セカンドオピニオンは、患者にとって一人の医師だけでなく
他の医師の意見も聞くことで、何か新たな解決法を見つけていくものです。

でも話は知っていたものの、そのような言葉が自分の
深層心理から聞こえてこようとは、思いもよりませんでした。

午前3時必死でパソコンでの検索を始めます。
「精神科 セカンドオピニオン」

そんななかで分裂病と昔から言われていた人は100人に一人いる。
薬漬け医療の精神医療でのひどさは世界でも日本がトップクラス。

向精神薬の多剤投与(3つ以上の薬)が台湾1%、香港0%、中国1%
韓国20%に比較し日本は40%となっている。
そのようなことを知ります。

日本では症状が起きたらそれを抑える薬を出し、また新たな症状には
それを抑える薬を追加していく。かぶせていく。

要するに減薬治療はほとんど存在しない。

パソコンでさまざまな薬に関すること、精神医療に関することを
検索しますが、セカンドオピニオンに関する医師はその時点では
愛媛のくじら先生のみがみえました。

双方向のネットワークで患者相互の理解を深め、
情報を共有し、解決策を探っていく。

くじら先生は的確な処方を提案し、変化があれば変薬し、すべて
減薬の方法でもって、最小の薬で通常生活を送ることができるように指導されます。

くじら先生は現在現役でなく、一線から身を引かれています。
ネットも閉鎖されたままです。

著書があります。
精神科セカンドオピニオン―正しい診断と処方を求めて (精神科セカンドオピニオン)
著者 笠陽一郎  先生はご著書を世に問われてから、
まもなくでネットを閉鎖されました。

こちらは本当に最後の方にぶら下がった相談者でした。
ネットでは正義感強く、真実を伝えたいという先生の真摯な思いが、伝わってまいります。

私は当時過去17年間の娘に関する情報を必死でネットに向かって
先生に向かって打っていました。
午後5時に膨大な文章を先生に送りました。
あとはただ待つだけの心境でした。

セカンドオピニオンがどんなものか、どれだけ真剣に、見もしない相談相手に
対応をされるのだろう。
心も体も疲れきっていつしか眠ってしまいました。

朝出勤の時が来ました。
まさに家のドアを空けた時、携帯電話の振動を感じました。

見知らぬ方からでしたが、いつもそうするように通話にしました。
くじら先生からでした。

驚きました。
心から感謝が溢れました。
見知らぬ人からのネットでの通信からでもまじめに対応される
すばらしい方でした。

午前7時、光明を見ました。
先生は即座に用件を語ります。

「非定型統合失調ですね。デパケンとリーマスを多く投与し、
向精神薬はジプレキサかリスパダールのどちらかが有効ですから、
服用させながら、様子を連絡してください。」

簡単な電話でしたが、明確な指示でした。

さて、今までのH先生の処方を覆すこの処方をどうしたらH先生に
認めてもらえるだろうか。 今までの処方ではだめだとはこちらからは言えない。
まして先生にはプライドがある。
考えました。

先生のプライドを汚さず、新しい服薬を認めていただく方法はなんだろう。
その時以前医学書で読んだ最近の医学会の常識について、が心に
浮かんできました。
「検証医学」

現在の医学では、患者からの訴訟についてが、医師の側からは
もっとも起こしてはならないこと。
から手術時にも幾枚もの書類に署名が必要とされる。
以前にはなかったこと。
そこで考えました。

そうだ先生には一切いかなる責任もなく、この薬の変更については
何があっても親が責任を取ると言う「念書」を提出してみようと
ひらめいたのでした。

「念書」をしたため、急ぎ、H先生にお会いしました。

ある道のり~新しい扉を探し求めて 2~

「高度情報化社会」とはほぼ25年後の現在のことです。
ユビキタス社会ともいい、あらゆるところに神は遍満するという意味。
将来このような社会が来るので、その時のために「心のネットワーク」を
世界中に構築しようという遠大な構想がありました。
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ある道のり~次代への扉を探し求めて 1~

社業は発展し、利益は最高額を示します。

ですが心は晴れず、何かが違うと湧き上がり続けます。
その後次第にバブルの影響が業界にも及び、
徐々に低成長時代へと移っていきます。
過激な競争に、また自分の本当にしたいことは
「これではない」との確信が生まれます。
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ある道のり~新しい道へ 2~

1978年(昭和53年)名古屋の中川区の地で
第二創業となりました。

厳しい時代ですが、徐々にお客様も増え、
バブル期を迎えます。

安物競争はしない。
価格が値打ちならそちらで購入をお願いする。
他社がしない製品を開発する。
T社長の教えです。
発生が同じですから、同じような企業の方針となります。
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ある道のり~新しい道へ 1~

土木会社に勤めて、4年間が経ちました。

最後の現場は、日光と宇都宮を結ぶ道路です。
その完成を見る頃に人生の分岐点となる決断を
迫られます。

家内は結婚で、お嫁さんとしてM姓になっています。
家内の家の父親の仕事には全く関心がないまま、
少し気になる話がちらちらと出てきていたのです。
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ある道のり~三つのお別れ~

今までの人生、青年期身近に若くして逝った人々が3人います。
中学校時代 、虫垂炎がこじれて あっという間に
旅立った Tくん。
ひょうひょうとして 物怖じせず、野球部ではキャチャー。
あんなに元気だったのにと 死を身近に感じた 初めての
体験でした。
小学校時代から 仲がよくて 「こうちゃん こうちゃん」と
いっては、よく彼の家に遊びに行きました。
手術して、その日に亡くなったと聞いて、呆然として
信じられなかったです。
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