2325「優しい世界へ」 2021.5.8 自分で自分を自分する から

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今回は「いっぷからのありがとう」さんの2021年05月02日「優しさは真実(正義)に勝る」と2021年05月03日「優しい世界へ」の2つの記事を紹介します。

「優しさは真実(正義)に勝る」

私たち人間は弱いものです。

・正しくありたい

・優しくしたい

・笑顔でいたい

・人の役に立ちたい

そう願っていても、何時も弱い心が頭をもたげます。

また逆に、

・自分は正しい

・自分の言う通りに動け・・

と、無意識のうちにマウンティングしてしまい、自分勝手な正義感を振り回し、

・人を批判し

・糾弾し

・追い詰め

そして、

・自分勝手な価値観に沿って、家族を含め、他人を動かそうとします。

そして、人がそれに従わないと

・猛烈に批判を浴びせ

・憎み

・足を引っ張り

・仕返しをしようとします

また、心弱い私たちは、何が正しいか、分ってはいても,なかなか一歩踏み出せないでいます。生きている間は、ずっとその葛藤かもしれません。

でも諦めないでください。みんながそうなんです。そこが出発点なんです。

ブッダがこう仰いました。

・嘘をつけないような人になっては いけない

・優しさは真実に勝る

ブッダの仰りたかったことは、相手を思いやる優しさや、調和の為の嘘は、真実よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。

また、こうも仰りました。

捨戒の法

ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。そして、酒を飲んだり、戒律を破る。その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。

ブッダは人間の弱さを知っていました。そして温かい目で人間を見ていました。

過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。人を追い詰めることはなさいませんでした。ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。

次に良寛さんのエピソードをご紹介します。

良寛さんの甥に、馬之助という放蕩息子がいました。良寛の弟の由之は息子の放蕩に困り果てて、兄の良寛さんに説教を依頼します。良寛さんは故郷の由之の家に出向き、馬之助の前に座らせられましたが、酒を飲んでばかりで、いつまでたっても説教しませんでした。

とうとう三日目の朝「わしはもう帰る」と言って良寛さんは家を出ようとしました。

そのとき馬之助の母は馬之助に、良寛の草鞋の紐を結んであげるように言いつけました。

馬之助は言われるまま草鞋の紐を結び始めますが、それでも良寛さんは黙ったまま。と、そのとき馬之助は、自分の首に何かが、落ちてくるのを感じました。見上げると、そこには目に一杯涙をためた良寛さんの顔がありました。

それをきっかけに、たったこれだけの出来事をきっかけに馬之助の放蕩は、すっかりやんだということです。

良寛さんは、馬之助の心の

・苦しさや

・悲しさや

・それを放蕩で紛らわさずをえない苛立ち

をただじっと見ていました。

煩悩だと知りつつも、煩悩に引きずり回されるのが私たち心弱い人間です。人間の悲しさ、苦しみは、いつでもそこから生まれてきます。悲しみを持った人に、自分勝手な価値観を押し付けたり、くどくどと説教したり、良寛さんは、そのような事はしませんでした。

ただ馬之助とともに、じっと悲しみ続けるだけでした。馬之助の父親の由之や母親は、息子の表面的な損得や、世間体から心配したかもしれません。

ですが、馬之助の心と、じっと一緒にいてあげたのは、良寛さんでした。

いくら正しい道を示されても、「こうであるべきだ」と正論を教えていただいても、なかなかそう簡単に行きません。でも本当はそうしたいのです。心では分かっていますから。

そして、それが自分には簡単にはできないとわかると、結局あきらめてしまい、また元の苦難の日々に埋もれてしまいます。正しい道を示されても何の役にも立ちません。

ですが、良寛さんのように心を理解し、心に寄り添い、「今のままでも、良いんだよ」と、見守ってくださる人がそばに居れば、私たちは徐々に、光の方向に進んでいけるかもしれません。

心弱い私たちは、煩悩で、あちこち頭をぶつけながら、人に迷惑かけながら、お世話になりながら、だんだんと、あちこち角が取れて、おかげ様の心が芽生えてくるでしょう。

そして、

・おかげ様

・お互い様

の感謝の心が芽生えた時、その辛く、苦しい経験をしたがゆえに、同じような苦しみ、悲しみの中にある人の心の内を理解して、良寛さんのように寄り添えるのかもしれませんね。

決して今の、悲しみ、苦しみは、無駄にはなりません。

夜明けは近いです。もう少しの辛抱です。それまで命を繋いでください。

周りの人に優しくしてください。愛を分けてあげてください。

それが自分の身を助けることに繋がります。

「優しい世界へ」

今日は「愛語」について実際にあったお話をご紹介します。

愛語と言うのはブッダの言葉です。ブッダは、私たちが幸せな人生を歩む6つの道(善)を教えられています。それは六度万行(ろくどまんぎょう)といわれます。

この6つの善いことのうち、どれか一つでも徹底して実行すれば、幸せになれる、と説かれているのです。そして六度万行の一番目に挙げられているのが『布施』です。

その布施行の一つに

『和言愛語(わげんあいご)』があります。

和言愛語とは、和やかな笑顔【和顔】と優しい言葉【愛語】とを施すことです。さて、それでは実際にあったお話です。

曹洞宗長徳寺の住職 酒井大岳山さんのお話です。

<引用開始> 引用元

ある書道の時間のことです。教壇から見ていると、筆の持ち方がおかしい女子生徒がいました。傍に寄って「その持ち方は違うよ」と言おうとした私は、咄嗟にその言葉を呑み込みました。彼女の右手は義手だったのです。

「大変だろうけど頑張ってね」と自然に言葉を変えた私に「はい、ありがどうございます」と明るく爽やかな答えを返してくれました。

彼女は湯島今日子(仮名)といいます。ハンディがあることを感じさせないくらい勉強もスポーツも掃除も見事にこなす子でした。もちろん、書道の腕前もなかなかのものでした。

三年生の時の運動会で、彼女は皆と一緒にダンスに出場していました。

1mほどの青い布を、左右の手に巧みに持ち替えながら、音楽に合わせて踊る姿に感動を抑えられなかった私は、彼女に手紙を書きました。

「きょうのダンスは一際見事だった。校長先生もいたく感動していた。私たちが知らないところでどんな苦労があったのか、あの布捌きの秘密を私たちに教えてほしい」という内容です。

四日後、彼女から便箋十七枚にも及ぶ手紙が届きました。

ダンスの布については義手の親指と人差し指の間に両面テープを張って持ち替えていたとのことで、「先生のところまでは届かなかったかもしれませんが、テープから布が離れる時、

ジュッという音がしていました。

その音は私にしか聞こえない寂しい音です」と書かれてありました。「寂しい音」。

この言葉に私は、心の奥に秘めた人に言えない彼女の苦しみを見た思いがしました。

十七枚の便箋に書かれてあったのはそれだけではありません。そこには生まれてから今日まで彼女が生きてきた道が、綿々と綴られていました。

彼女が右手を失ったのは三歳の時でした。家族が目を離した隙に囲炉裏に落ちて、手が焼けてしまったのです。切断手術をする度に腕が短くなり、最後に肘と肩の中間の位置くらいから義手を取り付けなくてはならなくなりました。

彼女は、小学校入学までの三年間、事故や病気で体が不自由になった子供たちの施設に預けられることになりました。「友達と仲良くするんだよ」と言って去った両親の後ろ姿をニコニコと笑顔で見送った後、施設の中で三日間、泣き通したといいます。

しかし、それ以降は一度も泣くことなく、仲間とともに三年間を過ごすのです。

そして、いよいよ施設を出る時、庭の隅にある大きな銀杏の木にぽっかり空いた洞の中で、

園長先生が彼女を膝に乗せてこのような話をされました。

「今日子ちゃんが、ここに来てからもう三年になるね。明日家に帰るけれども、帰って少しすると今度は小学に入学する。でも今日子ちゃんは三年もここに来ていたから、知らないお友達ばかりだと思うの。そうするとね、同じ年の子供たちが周りに集まってきて、今日子ちゃんの手は一つしかないの?なにその手?と不思議がるかもしれない。だけどその時に怒ったり、泣いたり、隠れたりしては駄目。その時は辛いだろうけど笑顔でお手々を見せてあげてちょうだい。そして『小さい時に火傷してしまったの。お父ちゃんは私を抱っこしてねんねする時、この短い手を丸ちゃん可愛い、丸ちゃん可愛いとなでてくれるの』と話しなさい。いい?」

彼女が「はい」と元気な明るい返事をすると、園長先生は彼女をぎゅっと抱きしめて、声をころして泣きました。彼女も園長先生の大きな懐に飛び込んで三年ぶりに、声を限りに泣いたそうです。

故郷に帰って小学校に入った彼女を待っていたのは案の定「その手、気持ち悪い」という子供たちの反応でした。しかし、彼女は園長先生との約束どおり、腕を見せては「これは丸ちゃんという名前なの」と明るく笑いました。すると皆うつむき、それから誰もいじめる子はいなくなったといいます。

私が教室で愛語について話した時、彼女は酒井先生は愛語という言葉があると黒板に書いて教えてくれたけど、園長先生が私にしてくれたお話がまさに愛語だったのだと思います

と感想を語ってくれました。

彼女はその後、大学を出て「辛い思いをしている子供たちのために一生を捧げたい」と

千葉県にある肢体不自由児の施設に就職。いまでも時々、写真や手紙などを送ってくれています。

<引用終了>

私達の周りには色んな人が居ます。いろんな個性の人もいます。身体の強い人、弱い人もいます。そして時々人は、他の人が、自分と違う。何か違和感があると言うだけで、

・差別し、

・排除し、

・時にはいじめまですることもあります。

これは悲しいことですが、厳然たる事実です。

その結果、傷つき、涙を流している人もいます。そして、それを行った本人も、実は同じだけ傷ついています。ご自分の良心に反する事をしたのですから、自分自身の神様の心が、それを良しとしないのです。

ですので、それを繰り返すと、自分自身の心がすさみ、結局、自分が不幸な道を歩むことになります。

そして、その不幸な道と言うのは自分だけでなく、身近な人にまで影響を及ぼします。

ですから、良心に反する行為と言うのは、あまり軽く考えていると、大きな落とし穴にはまってしまいます。

もちろん、それに気付いた時に、反省し、方向転換すれば、いつでも許され、元に戻れるでしょう。神様は裁きませんし、愛そのものだからです。

私達は色んな個性が居る世界に生きています。自分がそうして欲しいように、他人に対しても、その個性を認め、ブッダが言うようにいつも、笑顔で、愛のある、思いやりのある言葉を使いたいものですね。

みんなが そのままの、ありのままの自分でも、生きていていいんだよって そう思える、

優しい社会にしたいものですね。

夜明けは近いです。もう少しの辛抱です。それまで命を繋いでください。周りの人に優しくしてください。愛を分けてあげてください。それが自分の身を助けることに繋がります。