いのちの実相 11

「30歳を過ぎれば、おさまりますよ。」
当初発病時の医師の方の言葉が一筋の明かりではありました。
娘が31歳を迎える2006年になっていました。
私は娘の病気については、ほとんど家内に任せきりでした。
というか、そのことから逃げていたように思います。
ただ医師の方との相談とか、入院時とかには積極的に関わりました。
眠れなくなり、わけがわからないことを口にしだし、まったく眠れずに
発狂寸前になる。  いつものパターンが今回も繰り返されました。
そして入院です。
しかし今回はいつものN大学病院に空きがなく、その紹介を
いただいて民間のS病院に入りました。
30歳になりましたが、望みがあったはずの快復にまったくメドがたちません。
もうこれは積極的に娘に関わり、これからの娘の人生を娘が
なんとか一人立ちできるようにと、行動に出ることにしました。
ただ行動と言っても、毎日毎日病院に見舞いに出かけ、
本人の状態を記憶しながら、少しでもやさしく接し、
快復を願うのみでした。
まだ薬についてはまったくの無知で研究しようとも
思わなかったのです。
医師の方に任せ切りです。
一月ほどが経過しました。
いつもの入院時では、一か月を過ぎる頃には、ずいぶんと落ち着きます。
ですが今回はまったく気持ちが持ち上がらずにいました。
毎日の面会室では、恐怖のため「怖い怖い」を連発しました。
しばらくしますと父親との一時外出が許可されました。
そんな日には、二人で鶴舞公園に行きました。
一時間ほどの外出時間ですが、その間に幾度も逃げようとします。
きっと病院に帰るのが恐怖だったのでしょう。
しかし決まりですから、そんなことがあっても病院に戻るしかありません。
そして年が改まり2月になりました。
3ヶ月ほどの入院期間を経て、それでも家庭外泊の許可が出ました。
私たち家族はとても喜んで、金曜日からの二泊三日の家庭での
久々の団欒を迎えました。
ただ過去幾度かの家庭外泊の時のようなやすらいだ様子は
今回は見受けられなかったのです。
そして病院に戻らなくてはならない日曜日の朝、そのことは起きました。


子ども会向けの廃品回収の日です。
いつもは家内と私とあいている家族で、ビルの前まで
雑誌とか新聞、ダンボールなどを運び出します。
一時間ほどの作業です。
その日は娘の様子が何か不安定なため、家内に娘を見てくれるように
頼み一人で運ぶ作業をしていました。
「アーー!!」という叫び声のあと、ドスンとものが落ちた音が聞こえました。
「まさか!!」  心が震えました。
いそいで娘の8階の部屋に行きました。
家内は震えていました。
回転窓のほんの小さな隙間から無理に飛び降りたのでした。
家内の持ちこたえることができない、娘を握り締めた手をすり抜けて
落ちていったようです。
窓の下を見ましたら、娘がパジャマ姿で、お隣さんの1階の屋根に横たわっていました。
「救急車呼んで!」
「まみちゃん お母さん見てて!!」
動転する家内のほうが心配になっていました。
私は急いで下に駆け降り、お隣さんの玄関ドアの前に行って
チャイムを鳴らしました。