いのちの実相 15

2006年6月6日以来、私の人生は娘一色となりました。
いやその前の2月の飛び降り以来といってもいいでしょう。
親の責任とかというような義務を飛び越えています。
人は何故ここに生まれるのか。
そしてさまざまなことを何故体験するのか。
結局はわからないので、わかりませんと言うしかない。
でも分からないがゆえに少しでも機嫌よく生きようじゃないか、
それがこれまでの結論です。
原因が意識なら結果は現実。
その中にはもちろん病気も入っている。
でも原因である意識を生み出す心が壊れていたらどうなんだ。
ある人は、心が壊れている人はもう一度やり直すしかないですよ、と言います。
この人生をもう一度。
このような人間界の人生をもう一度。
ごめんです。
もうよいのです。
そしてそれはもちろん娘にもしてほしくもない。
今やる。!
必ずやる!
やり遂げる。!
不明なことをそのままにせず、もうすこしましな答えを得たい。
決して分からないかもしれないけれど、きちっとしたい。
そんなふうに思うのでした。
そして正月を病院で過ごし、2007年2月の末に退院にまで快復しました。


退院後は週に2回のリハビリと週に一度の精神科の受診があります。
車椅子生活が始まっていました。
整形の主治医の方には、絶対に立てませんから、と
厳しく言われていました。
でもそれは整形の先生の独特の言い回しで、
患者さんがそう聞くと、絶対に立って見せると発奮するようです。
事実娘は立って杖で歩けるようになるまで、後日快復します。
問題は精神です。
強い薬は中止し、向精神薬や睡眠薬などの服薬に変わっていました。
私はそれまでみな医者や家内に任せ切りだったことを反省し、
徹底的に精神薬の勉強をしました。
自分ではどんな薬も体には良くないので、口にしなかったのに、
娘にはひどい薬を黙認するような、狂った父親でした。
娘の様子は、足の状態が前に戻らなかったことの引き換えのように、
穏やかなときが多くなってきました。
でも安定には程遠く、やはり以前のように怒り、ハイテンションに
なることがやむことは無かったのです。
私は先生の言うことさえ聞かず、まず睡眠薬をすこしずつ減らしました。
そして日常の一週間の様子を先生に詳細に伝えました。
薬の加減による、状態の変化を先生と共に深く観察し
報告することを繰り返しました。
それとともに、民間のあらゆるものを試しました。
慎重に減薬し、状態が元に戻ると、また薬を戻し、
少しずつ少しずつ減らしていきました。
その年は精神的にきついながらも、以前からだが自在だったときから
比べると、思うように動かないので、見守るほうとしては楽です。
それでも口は達者ですから、近くにいるものは耐えられないことも多いのです。
ゆっくりと薬を減らし 、穏やかなる時が多く感じられるようになりました。
そして年を越し、退院から一年と数ヶ月が経過した5月になりました。
ずいぶんがんばって娘と二人三脚でここまでよく来たなあと
思って、家族みんなで家庭でゴールデンウイークを過ごした後の
深夜でした。
娘のいつもの怒りが爆発しました。
私は本当に絶望してしまいました。
こんなにやってきたのにまた元に戻ってしまった。
何故なんだろう。
どうすればいいんだろう。
それこそ絶望感にがっくりとしていた時、まさに聞こえてきたのです。
「セカンドオピニオン!!」
自分の内側から聞こえていた声でした。