「ガス室はなかった」 奥の院通信 R3 6/15

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昨日の通信で書いたラシニエ(1906-1967)は死去するまで、絶滅文献の全ての物語を調査した。『他の王国』を書いたデヴィッド・ルーセットやジャン・ポール・ルナール神父を追い、彼は『鎖と光』の中で、「ガス室がブッヘンワルドで作動していた事実を如何にして確認できたのか」と質問している。神父は「他の人々がガス室の存在を教えてくれた。私は自分が見たこともないが、ガス室のことについては、好んで証人のような姿勢を取ってきた。」と答えた。実に正直である。

 ラシニエは、旅行者らが常に大げさな話を持って帰ってくるので、最初の本の表題を『オデッセウスの嘘』としたのであった。その中で、彼自身がブッヘンワルド被収容者だったから、「ガス室」などは、そこには存在しなかったということを証明したのであった。

 『ラヴェンスブリュック:女たちの死のキャンプ』を書いたドゥニーズ・デュフルニエも調査した。彼女も「ガス室」の根拠としては、当時聞いた曖昧な噂以外には、何も持っていないことが判明した。この「ガス室」の噂は「共産主義の政治犯が慎重に広めたもの」とシャルロッテ・ボルマンが語っていた。ラシニエは他の多くの著者を調査したが、実際に「ガス室」を見たものはいなかった。

 フリップ・フリードマンの『これがアウシュヴィッツ:殺人収容所の物語』、オイゲン・コーゴンの『地獄の理論と実践』などの著者の中の誰も、アウシュヴィッツの「ガス室」を実際には見ていない。挙げればきりがないが、要するにラシニエが確認できたのは、自分で「ガス室」を見た者はいなかった、という「事実」だけである。

 戦後、ラシニエはヨーロッパ中を旅して、ドイツの強制収容所で「ガス室」を実際に見たという人を捜し求めた。しかし、一人も現れなかった。まして、稼働中の「ガス室」などを見たことのある人は一人も現れなかった。

 「ガス室」のことを書く人は無数にいるが、実際に見たことのある人はいないと言うことが分かった。いつも常に彼らは決まって「信頼できる情報源」という。しかも、その情報源となる人物は、既に死んでいる者ばかりなのである。だからこそ、事実を追求されると困るので、「ガス室」について書いたり言ったりすると逮捕されるのである。嘘だから、これには一切触れさせない、動かぬ事実としている。

 ニュールンベルグ裁判でも、多くのドイツの将軍たちが逮捕され、酷い拷問の末に自白書に署名させられた。そして、それに基づいて死刑判決が出され、その執行が早急になされた。ただ「故人に口なし」を利用し、ただ真実を隠すためだったことが良く分かる。

 ラシニエの研究から分かったことは、「ガス室」なるものは存在しなかった、という事実だけであった。ガス室はドイツの収容所には全くなかったという「ガス室」の虚妄性だけである。今存在し、観光客が見せられている「ガス室」は、戦後造られたものである。一度も使用されたことはない。

 ところが、日本では、戦後も半世紀が過ぎた1995年(平成7年)2月に、マルコポーロ事件が発生した。文藝春秋社が発行していた雑誌「マルコポーロ」が、内科医の医師西岡昌紀氏の「ガス室はなかった」と言う記事を載せたところ、ナチハンターで名高いアメリカのユダヤ人団体サイモン・ヴィーゼンタール・センターから強硬なる抗議を受け、文藝春秋社は「マルコポーロ」を廃刊し、社長、編集長は辞任解任された。

 この事件以来、日本ではいまだに「ホロコースト問題」はタブー視され、触れることすら出来なくなった。この事件以来、日本のメディアは、この問題には一切触れることはなくなった。当時文藝春秋社は「反論はいくらでも無料で掲載する」といって問題解決を図ろうとしたが、彼らは一切聞く耳は持たなかった。ヨーロッパでは刑事罰で「ホロコースト問題」をタブーとして担保しているが、日本ではこの「マルコポーロ事件」で日本人の口封じがなされているのである。

 そこには「歴史修正主義」、「ホロコースト否認論」、「反ユダヤ主義者」といった言葉が用意され、いつでもどこででも、この問題にはもう触れさせない、という固い姿勢を確立している。ラシニエ氏が既に、「ガス室」は存在しないということを証明しているにも拘わらず、この西岡氏の記事一つで、日本の大手出版社が発行していた雑誌を廃刊に追い込んだのであった。奥の院・ディープステートは、世界のメディアを完全支配していることが良く分かる。