「献身」 T女史の生き様 R3 7/11

「左でしょう・・」

「なんで分かるんですか。?」

「左は受ける、右は出すから・・。
あなたは受ける一方でそれを受容できていないから」

「どうすればいいんでしょう・・・。」

「今までで体験したすべてを受け入れて赦してください。
それも赦してやるではなくて、自分がお相手に対して
抱いてしまった感情をまず自分に赦し、それから
お相手を赦してください」

今年の初めにというか正確にはおそらく昨年の暮れに
霊線が切れて天に還った友人T女史との会話です。

「あの子はだあれ だれでしょね~

なんなんなつめの花の下

お人形さんと 遊んでる

となりのみよちゃんじゃないでしょか~」

永久の少女だったかのようなTさんのきれいな魂と
お会いできたのは、思えば20年ほど前だったでしょうか。

友人の御紹介をいただいて名古屋の博物館の
駐車場での初めてのお出会い。

何度生まれ変わっても清廉な少女であろうTさんが
そこにいました。

Tさんの人生を一言で申せば「献身」しかありません。
いつもまず目の前のお相手のことを先に考える。

日常接するご家族の親御さんを見送り、祖母の方を見送り、
遅くに婚姻となったお相手の親御さんを見送り、
お世話お世話の人生でした。

おそらくは約束の人だったであろうご主人との
遅い結婚の披露の日。
舞鶴にあるご実家を訪問させていただきました。

そこではそのずっと以前にお母様の葬儀も
行われました。
地面に座し韓国式の礼を尽くして、死者を見送る
お姿にもらい泣きをしてしまったことを思い出しました。

それからまだ数年しかたっていません。
お聞きしたことはないのですが、
おそらくまだ50歳に満たず、お子さんも授かることなく
人生にお別れを告げられました。

霊感強く晩年には大企業のコンサルタントとして
東京に週に何日も出向き、企業の内部の和を
保ち続けた方でもありました。

またご友人の依頼には真摯に対応され多くの方の
支えにもなっておられました。

今日は令和3年7月11日日曜日です。
しきりにTさんが呼びかけてまいります。

まだ結婚される前ですから、いまを去る10数年前に
友人の韓国でのふるさとで、鎮魂をする旅を企画していただき、
自分の娘が入院中の期間をその時期に当てました。

Tさんの生まれ故郷を訪ねたり、韓国の日常の生活の場を
見させていただいたり、「サムゲタン」の人気のお店や
「宮廷料理」の有名なお店にも同行いただきました。

韓流の時代ドラマの撮影現場訪問もとても懐かしい思い出となりました。

そして日本から同行された友人のご先祖様の住居を
役所で調べたのですが、どこにあったのかはっきりせず、
その地がおそらく見渡せるであろう少し小高い場所の
道路際にて鎮魂の「般若心経」を唱えさせていただきました。
神聖な氣に満たされていました。

昨年の秋、ふと繋がったラインが長い間音信不通だった
私たちを繋ぎました。
それからは末期の乳がんの状況の報告や、
眠れないことや、怒りを消せない自分への悔恨や
先行きの不安、痛みなど何かれと交信しました。

出来ることをしようとだけ強い決意で臨んでいました。

二か月ほどが過ぎ当然に連絡が途絶えました。
そのことが肉体の弱体化を告げていました。

そして暮れのある日、Tさんの霊線が切れてしまったと
突然に感じました。

末期の交信の様子を知るお姉さまから
ラインが入ったのはそのおよそ一週間後です。
「お知らせした方がいいか迷ったのですが、
妹がきっと知らせてほしいと思っていると感じるので、
お知らせいたします」

そのご案内を受けてお正月の通夜に京都に出向きました。

受付で名前を書くのですが、山田と書いてもうその先が
進まず、慟哭してしまいました。
お姉さんが近寄ってくださって
「もうその先は大丈夫ですから」と告げていただきました。

葬儀中深いご縁の方の葬儀にはいつもそうであるように
ずっと呼びかけが届いていました。
涙がとめどもなく溢れました。

きれいな魂だった若い方の死は、生きている者に大きな
影響を与えています。
とてもTさんのようにはできないのでしょうが、
ただTさんの生きかただけはずっと覚えていることでしょう。

棺の中の安らかで美しいお顔が「献身」の人生だった
Tさんのやり切ったという安堵感を映していました。

今生でTさんにお会いできたことを感謝の言葉で
本日お送りしたいと思います。

韓国名でずっと人生を毅然として送ったTさんは
「接心」を持つ女性でした。

Tさんへ

「ありがとう」が結んだあなたの体にありがとう。

あなたにおあいできて ありがとう と申し上げます。