「日本の原爆開発に関する工作活動」 奥の院通信から R3 10/11

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もう戦前の話になるが、山形県新庄市近郊の沼近くで変死事件があった。単なる自殺に過ぎないのか、それとも強要された自殺なのかは、その変死者の背後関係を洗えばある程度は分かる。しかし、この件については、捜査当局が故意にか、あるいは無能ゆえにか、単なる自殺として葬り去られた。
 大東亜戦争末期のある冬の穏やかな日の午後、一人の青年の凍死体が発見された。この男は道筋の茶屋に立ち寄って人を待っているようだったという。沼近くで靴を脱ぎ、数メートルのところで、雪の上にうつぶせになって死んでいた。左手に口の開いたままの鞄を握りしめ、その鞄からは書類が周囲に散乱していた。

 その頃、隣県の宮城県警の若い五乃井警部補が、仙台にあった金属研究所(原子爆弾の研究所)の青年助手・菊池清太郎の失踪事件を捜索していた。この失踪者が、金属研究所内の極秘の原子爆弾関係書類を持ち出していると疑ったからである。

 五乃井警部補が、この失踪者の菊池清太郎を助手としていた東北大学の仁科教授に失踪直後に面会した時、仁科教授は五乃井に、「生きてはいないでしょう」と言っている。教授は側近にもそう漏らしていたという。ある関係者が菊池の両親を訪ねたとき、両親も既に仁科教授から何かを言い含められていたように感じたという。
 しかも、この青年はある良家の子女と婚約しており、彼の失踪も挙式を直前にしてのことだった。息子の失踪を内密にし、捜査の打ち切りを願っている様子の両親の態度に、その関係者は強い疑念を抱いた。この青年がもうこの世にいないとすれば、犯人はこの青年は生きていないと言えるもの以外にはいないはずである。そうであれば、理研の仁科芳雄博士の甥である東北大学の仁科教授が、叔父の仁科芳雄博士から託された書類を、この青年に持ち出させたか、あるいは敵側の工作員に手渡させたかということになる。仁科教授は「仁科芳雄博士から預かったものを紛失した」といっていた。

 そこで、仁科教授は仁科芳雄博士の敵工作員だったのかが問題になる。この疑問を解く意味でも、この青年助手は死なせてはならないものだった。彼が生存して発見されるか、死体で見つかるかでは、国の最高機密の行方を失うかどうかの重大な岐路に立つことになる。それほど重大な意味を持ったこの失踪事件に当たって、両親が全く他人事のような振る舞いをしているのは不可解であった。更に、この失踪者の後を追っていた五乃井警部補は、何となく上層部の有力者から捜査打ち切りの圧力があって、しかも、それに抗して密かに事件を追い詰めている。

 凍死体を発見した新庄警察も、山形警察も共に、凍死体となった失踪者の背後関係を知らなかったのであろう。それを単に自殺とみて死因の解析もしなかったために、後にこの凍死者についての宮城県警からの紹介があったときには既に10日を経過していた。東京の警視庁が、この青年助手の足取りについて調査を命じたのは、更にその数日後であった。
 いずれにしても、仁科芳雄博士や甥の仁科教授が東北大学にいる間、仙台市はフリーメーソンやロータリー・クラブの勢力が強く、その指示で世の中が動いていた。東北学院大学総長のシュネーダー氏などが仙台のフリーメーソンやロータリー・クラブの采配を振るっていたことは事実で、その仙台市上層部の圧力には抗しきれず、仁科教授が原子爆弾関係の書類持ち出しの、中心人物となったのではないかという疑問が残された。昨日書いた湯川博士ばかりではなく、仙台の東北大学にも奥の院工作員が多数入り込んでいたことがよく分かる。

 日本でも原爆開発が進んでおり、終戦直前にはその実験も終わっていたことはある程度知られている。しかし、昭和天皇はその研究を禁じられたことはあまり知られてはいない。いずれにしても、あの戦争の敵であった奥の院は、その傘下のキリスト教会やフリーメーソン、ロータリー・クラブを総動員して、日本での工作を進めていたのである。その中で、彼らが吊り上げた若き研究者の一人が湯川博士であり、もしかしたら東北大学の仁科博士も含まれていたのかも知れない。