2645「青空ひろば」2022.3.23 自分で自分を自分するから

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 今回は立花大敬さんの大敬ワンディー・メッセージ「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。

「青空ひろば」

618 2022.03.20 ~~620 2022.03.22

昔は「思い通りの人生」にあこがれたものですが、今では「思い及ばぬ人生」の方が断然面白くなってきました。

「思い通り」ということは、ついに自分の「思い」の枠組みを突破できなかったということですね。

人の頭で思い描くことなんて、結局大したことではないのですから、それではつまりません。

もっと大きな、宇宙いっぱいの存在の頭(神の作戦)に身を委ねて、その偉大な存在がどんなプレゼントを差し出してきても、文句を言わずにそのまま受け取って、やるべきことをやってゆけばいいんだ、もうそれだけでいいんだと分かり、人生がとても楽に、楽しくなりました。

それが自分には困ったプレゼントのように思えても、それは目先しか見えない、ちっぽけな人間の頭の判断なのですから信用できません(「塞翁が馬」の故事がありましたね)。

取りあえず、神さまから差し出されたどんなプレゼントでも、『まあ、神さまが下さるというのだから、きっと悪いものであるはずがないよね』と信じて、嫌な顔一つしないで、素直に受け取ってゆけばいいだけのことなんです。

そうは言っても、私の人生、相変わらずのドタバタ、オロオロ、ウロウロの連続ですが、このように波立つ心の根底にはいつも、『何だか分からないけど、きっと面白いビックリするようなプレゼントが、これからドンドンやって来るはず』と、何となくワクワクして、明るい期待感を自然に持てるようになってきている自分がいます。(完)

617 2022.03.19

最高の天使は、顔に宿る。と、スウェーデンボルグは言っている。

経典には仏様は「光顔(こうがん)」でいらっしゃったと、書かれている。

604 2022.02.28 ~616 2022.03.18

「どうして坐禅されているのですか?」と聞かれれば、「坐禅すれば『楽』になるからですよ」と答えます。

その「楽」は、「身の楽」と「心の楽」の両方です。

なぜ坐禅すれば「楽」になれるかといえば、坐禅すれば、身と心が「ほどける」からです。

お風呂に入ったり、体操をしたりしても、身心をほどくことができます。

それは、外側(体)から内側(心)に進んでゆく「ほどき」です。

坐禅の「ほどき」は、いのちの一番内奥部から始まって、心をほどき、さらに体をほどくという具合に、内側から外側へと浸透してゆきます。

体や心が苦しいのは、「固まり」があるからです。

その「固まり」が、「気」の順調な循環を妨げているのです。

坐禅すれば、身心が「ほどけ」て、全身心に「気」がくまなく行き渡るようになるので、「楽」になるのです。

ところで、「私」というものも、実は「気」の順調な流れを妨げる「固まり」のうちの一つです。

坐禅を長らく続けてゆけば、やがて「私」という「固まり」も、少しずつ「ほどけ」てゆきます。

「私」という「固まり」が「ほどけ」れば、何と「楽」に生きられるんだろうと、実感出来るようになります。

「私」という「固まり」が、いかに自分を不自由にし、苦しめてきたかが分かるようになります。

「私なし」の状態の安楽さに気が付けば、少しずつ「私」を手放して生きられるようになります。

「私なし」の生活が出来はじめると、なぜかシンクロニシティ(同時性現象、『こうしたいなあ』と思うことがすぐ実現する現象)が頻発するようになります。

また、セレンディピティ(思いがけぬハッピーハプニングが起こる現象)が次々起こるようになります。

なぜそうなるのかというと、「私」という「固まり」が「ほどけ」れば、あなたは世界と一体となるからです。

あなたの『こうしたいなあ』という思いは、世界に瞬時に伝わり、その思いの実現のために、世界中が協力してくれるようになるのです。

「私なし」になったあなたは、他の人や世界のしあわせのために、力まず自然に、無理無駄なく働けるようになるので、世界に対して『善意と愛を差し出す手』が、Uターンしてあなたに帰ってきて、世界からあなたに『善意と愛を差し出す手』が差し出され、セレンディピティ現象となるのです。

坐禅すれば、いのちの内奥からスタートして、心をほどき、体をほどき、私をほどき、ついに「世界をほどく」働きをするようになります。

「悟り」は「差取り」です。

「私」という「固まり」があると、内(私)と外(世界)の間に仕切り(境界)ができます。その仕切りがあなたを不自由にし、息苦しくし、暗闇に閉じ込めるのです。

その「私」の「固まり」が「ほどけ」ると、あなたは開放されて世界と一体となり、あなたと世界は「いきとおし」となります。

「いきとおし」とは、「生き通し」です。

世界と一体となり、「いのちがひとつ」となるのです。

過去・現在・未来の時間と一体となり、あなたのいのちは「永遠」となるのです。

また、「息通し(いきとおし)」です。

閉じ込められて淀んだ空気を吸って息苦しくなっていたのが、牢獄から解放されて、新鮮な空気を、好きなだけ、思う存分呼吸出来るようになったのです。

また、「行き通し(いきとおし)」です。

あなたの意識を自由に世界中に移動させることが出来るようになります。自分の思いが、どんなに離れている人にも伝わり、その人の思いを瞬時に思いやることが出来るようになります。

そのように「いきとおし」になったのが「悟り(自他の差取り)」です。

完成に近いほど「ほどけ」て「いきとおし」になった人が「ほとけ(仏)」様です。

しかし、仏様といえど、完成に近いというだけで、まだ「ほどけ」を完成されたんだとはいえません。

なぜなら、あなたもわたしも、まだ心や体にいっぱい「固まり」が残っています。「いのちはひとつ」なんですから、あなたやわたしの「固まり」は、実は仏様の「固まり」でもあるからです。

ですから、仏様やイエス様は、世界中のすべてのいのちたちが「ほどけ」過程を完成させるまで、「ほどけ」の業を続けてゆかれます。

あなたが坐禅すれば、そんな仏様の「ほどき事業」に協力することになり、また世界中の人の苦しみの「固まり」を、少しでも「ほどく」という徳を積むことになります。

ですから、坐禅は何もしないで、ただ坐っているだけですけれど、その功徳はとても大きいのです。

道元禅師が「坐禅の功徳」を説いておられる文章を意訳してみました。

坐禅を始める前に、この文章を音読してくだされば、坐禅がやれるありがたさを、しみじみ納得出来、功徳が大きな、いい坐禅が出来ると思います。

道元禅師『弁道話(べんどうわ)』意訳

「たとえ、あなたがわずかな時間であっても、《坐禅印》を組んで坐ると、世界中(すべての空間と過去・現在・未来の時間のすべて)が、その《坐禅印》のうちにスッポリおさまる。

そうすると、過去・現在・未来において、あらゆる場所で活動しておられるすべての仏や菩薩たちに霊的な力をお供えすることになり、その救済活動を助けるという功徳を、あなたは積むことが出来る。

また、苦悩する人たちに立ち直るための力を足し与えるという徳も積むことになる。

そうすると、『徳は孤ならず』というコトバがあるように、それらの功徳はUターンしてあなた自身に帰ってくる。

身と心のゴタゴタがなくなってスッキリし、生きるための活力が回復し、その時期が来ている人は、その人にふさわしいレベルの悟りを得ることが出来、最終的には自他一体(ひとついのち)の悟りをも獲得することが出来る。

そのように、あなたの身と心がクリアーになると、さらにその解放の喜びと悟りの自覚が世界中を覆いつくし、すべての存在を光明で包み込み、輝かせることになる。

しかし、この功徳は全時間と全空間に及ぶ無限の功徳であるがゆえに、あなたの頭脳は、その限りない功徳をすべて認識することは出来ない。

ただ、あなたの身と心がその功徳の一部を直感的に捉えて歓喜し、閉ざされた重苦しい境地から解放されたと実感するだけである。

すべてを認識できないからといって、それが存在しないなどと言ってはならない。

ただ、仏の教えに誤りがあるはずがないと信じ、ひたすら坐禅を実践してゆきなさい。

坐禅の功徳は、坐禅している間だけあるというものではない。

坐禅している時は、鐘をたたいて音が鳴っているようなもの。しかし、あなたが坐禅すれば、鐘が鳴る前の過去にもその妙音が鳴り響いており、鐘の音が止んだ後でも、その妙なる響きは綿々と続き、絶えることがないのだ。(完)