2912「不幸は感謝のかくし味」2022.12.16 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからありがとう」さんの2022年12月09日「不幸は感謝のかくし味」と2022年12月06日「神様が作った家族」の2つの記事を紹介します。

「不幸は感謝のかくし味」

怒涛のコロナウイルスの騒動で、色んな所で、いろんな人の人間の本性が、デフォルメされ、わかりやすく、くっきりと炙り出されています。

まざまざと、その人の人間性と、霊性をこれでもかと、世間にさらしています。

見ている人たちは、だんだんと、どれが嘘で、どれが真実か気づいてきます。

人間の本質を見抜き始めました。

さて今日は「置かれた場所で咲きなさい」の著書で有名な渡辺和子さんの言葉をご紹介します。

不幸は感謝のかくし味 そのような意味のお話です。

転載するに当たって、解り易くするために、ところどころ意訳し補足してあります。

<転載開始> 転載元

私どもの大学(ノートルダム清心学園)の正面玄関に、プロテスタントの牧師、河野進さんが書いてくださった、一つの小さな詩がかけられております。

天にまします父よ どんな不幸を吸っても

吐く息は感謝でありますように すべては恵みの呼吸ですから

学生でいるあいだは不幸の息をあまり吸わせないように、先生たちが配慮をいたします。

しかしながら、卒業をして、その正面玄関を背にして出ていけば、その先にある職場、結婚生活、社会には、往々にして思いもかけないような不幸がたくさん漂っている空気が待ち構えています。

生きていくためには、その空気を吸わなければなりません。

思わぬ不幸を吸い込んでしまったとしても、それをそのままで、吐き出す人になってほしくない。

さらに増幅して、大きな不幸にしてほかの人に吐きかけるような人になってほしくない。

それを感謝に変えて吐き出す人、それがある意味で本当に強い人であり、本当に優しい人だと思います。

他の人が吸う空気を汚さない、その強さと、他の人を思いやる優しさを学生たちに身につけて欲しいと願っています。

しかしながら、それは決して、簡単なことではありません。

私たちが生きていくうえで、この不幸の息をどうしても吸い込んでしまうとしたら、

人のせいにしないで、むしろその不幸を自分の中で感謝に変えていく。

そしてそれは、真珠がつくられていくのと同じプロセスだと私は思うのです。

真珠貝というものは、自分にとってあまり望ましくない異物が入ってきたときに、

それをいやがって吐き出してしまわないで、その異物の刺激により分泌される液で、

異物そのものを軟らかく、そして固く包んでいきます。

それを繰り返し大きくなったものが、真珠になるのです。

同じように、私も自分の生活の中に入り込んでくる異物、不幸を受けとめて、

私しかつくれない真珠を自分の一生涯をかけてつくっていきたいと思っています。

苦しいこと、いやなこと、私たちにとってマイナスの価値しか持たないもの、

それは必ずしも悪いものではありません。

それがなかったら、真珠がつくれないのです。

それがなかったら、感謝の息が吐き出せないのです。

そう思うときに、もしかすると、私たちの生活の中にいやなもの、苦しいこと、

そういうものがあっても、それを受けとめて自分なりに、自分しかつくれない真珠に変えていける、そのことを、ありがたいと思って生きなければいけないのかもしれないと思います。

毎日の忙しい生活の中で、私たちが木を切る手を休めて斧を見つめるということは、

ふだん気づかない、しかしながら身の回りにたくさん転がっている

ありがたいものを、ありがたいと気づくゆとりを持つ、ということかもしれないと思います。

<転載終了>

幸運は不幸な顔をしてやってくる。

そう言われるように、往々にして、いえ、全ての不幸、苦難、病気、別離は

私たちの心を強くしてくれます。

たとえ一時、悲嘆の涙にくれようと。。

そのような時こそ、神さまは、私たちをいつも以上に気にかけ、見守ってくださっています。

そして、私たちが、涙も枯れ果て、その苦難を受け入れて、前を向いた途端、

待っていましたとばかりに、幸せのシャワーを浴びせてくださいます。

それは、神さまの用意してくださった、試練を自分の力で、受け入れることができたからです。

そうなれば、その結末が、どちらに進もうと、関係ありません。 

どちらであろうと行きつく先は魂の幸せです。

せっかく 神さまが、幸福をくださろうとして、先に、不幸に見える出来事を与えてくださっても、そこから目をそらし、何かモノや人に依存し、頼り、逃げてばかりいたら、せっかく用意してくださっていた神さまの祝福を受け取ることができません。

泣いても、叫んでも、そして例え運命を呪う言葉を吐こうとも、そんなことは神さまに取ったらどうでもよいことです。

神さまが見ていらっしゃるのは、それをちゃんと自分のこことして受け止めたか?

受け入れたか・・・だけです。

そんな経験ができるのも、そこが、神さまが私たちを置いて下さった場所だからです。

神さまが私たちを置いて下さった場所では、いろんなことが起こります。

笑いあり、涙あり、現実はドラマチックで、ダイナミックに過ぎて行きます。

そこで私たちは、希望に胸を躍らせたり、時には絶望の淵に沈むかもしれませんが、

幸も不幸もひっくるめてその醍醐味を味わいたくて、ここに生まれてきました。

そのような沢山の経験と、感情を味わい、私たちは、もと来た世界に戻ります。

そこには形ある物を持って帰ることはできませんが、何物にも代えがたい経験は、

持って帰ることができます。

そして神さまの用意してくださった、一見 苦しみに見える経験こそが、私たちの魂を練り上げてくれます。

そしていつか、だれでも、きっとどんな不幸を吸っても、吐く息は感謝でありますように

そうなることができることでしょう。

全ての経験を、感謝に変えることができた時、私たちは、もう二度と肉体を持ってこの地球に、生まれる必要はありません。

「感謝」という行為こそ、私たち人間が神さまから与えて頂いた、最高の行為です。

皆様が感謝の内に、日々を過ごすことができますように。

「神様が作った家族」

私たちの本質であり、永遠の存在であり、まさに神さまから頂いた分霊である魂が、

この地球にやって来て、物質存在である肉体をまとって生きる目的は

宇宙の仕組み、つまり神様そのものを学ぶこと。

そのために、大本の神さまは最適なシステムを、この地球に用意してくださっているのだそうです。

それが家族というシステムです。

宇宙の無償の愛を学ぶために、用意されているのが家族や夫婦というシステムなのだそうです。

生まれる前に、お父さんお母さんの魂と情報交信し、

子どもとして生まれることを了承を得てから生まれてきます。

魂はテーマを持って

「今回の生で、共にこのようなことを学びましょう」

ということでお互いの承認の元にプログラムされ親子となるのだそうです。

子となる魂は、親よりも上のレベルの魂であることが通常だそうです。

また子どもは生まれる際は、純粋な魂そのものであって自我、我欲は全く無く、

宇宙意識そのものであるということです。

魂が生まれてからだんだんと、肉体・顕在意識と同調していきます。

それが、現実社会で学ぶということで、その学びは約束された両親に委ねられています。

神様の目的は

親子・家族というものから、

宇宙(神さま)の本質である「無償の愛」を経験する。ということであり、

そのために家族というシステムが、地球の仕組みの中に用意されているのだそうです。

ですので、どんな状況(毒親云々、虐待云々)であれ、この世に生み出してくれた親に感謝ですね。

私たちがこの世で無償の愛の体験をさせていただくために子として産んでくださった。

すべてに感謝です。

そして親も、そのまた親に感謝しかないと。

また逆に親は子どもによって、自分の魂を育ててもらう。そんなことも起こります。

子供たちのように純粋な魂そのもの、自我、我欲の無い存在から

学ぶものはあまりにも多いと思われます。

何故なら、彼らはまだ宇宙(神さま)そのものであるからです。

そして今現在の親子の関係。

自分が置かれている環境、喜びや悲しみも全ては自分が過去に投げかけた結果であり、

それを学ぶのがこの世、この地球プログラムの目的でもあります。

この宇宙は、自分が投げかけたものが、受け取るものです。

投げかけない物は、自分に帰って来ません。

ですから家族や夫婦の態度や言葉は、まさに自分自身の鏡となっているはずです。

宇宙法則の最も身近な縮図ですから。

全ての出来事が、神さま(宇宙の仕組み)を知るため。

無償の愛を知るための学びのために今起きています。

家族が鏡となり、私たちの進むべき方向を示してくれています。

・病気になったり、

・不登校になったり、

・夫婦喧嘩をしたり、

・我がままや甘えから来る暴言を吐いたりしながら、

様々な現象を通じて親や子に、配偶者にメッセージを送っています。

それが無償の愛の体験になるからこそ、神さまはこの地球にそのシステムをお造りになりました。

それが理解できれば、

一緒にその目的に向かって切磋琢磨してくれる家族には本当に感謝ですね。

有難いことですね。