2924「鏡(蛇身=666)を封印した「鍵」1」2022.12.28 自分で自分を自分するから

 今回は「宇宙の中心で愛を叫ぶ」さんの2022年12月16日の記事を2回に分けて紹介します。

宇宙の中心で愛を叫ぶ (ameblo.jp)

「鏡(蛇身=666)を封印した「鍵」」

こちらは現在、辺り一面銀世界となっており、視界を覆うほどの雪が絶え間なく、しんしんと降り積もっております。

季節の移ろいというものはじつに早いもので今年もまた青森に冬将軍が到来しました。

読者の皆様、こんにちは。澤野大樹氏青森講演会主催小野裕美子です。

今回の澤野大樹氏の青森での講演は「ホワイトレセプション」となりそうです。

ご遠方からいらっしゃる皆様、本物の「雪国」をぜひ味わってください。

ということで、青森講演会直前となりましたが、恒例となりました澤野氏へのインタビューを始めたいと思います。それではスタート!

――澤野さん、こんにちは。前回のインタビューが10月30日でしたね。あっという間にもう師走に突入しています。

はい、こんにちは。誰でも考えるであろう月並みな発言はしてはいけないのですが、あえて言わせていただければ「あっという間にもう年末ですね!」ですね。

――毎度のことながらこの間に世の中ではまた、様々なことが起きています。最近の時事の中で澤野さんが特に注目したものはありますか?

「上海閥」(上海幇)のボスが消えたので、中国での「ゼロコロナ政策」が急速に緩和されたことですかね。

――その代わりに学生たちによるデモが過激化しましたよね。

ボスのデリートを察知した「残党」による最後の足掻きであったと思います。

日本で清和会の皇帝が消えたこととリンクしているのでしょう。

上海閥のボスの父親は関東軍の情報部員でしたからね。

――これで中国の方は「完了」となったのですか?

それで完了となると私も思っていましたが、事実を認めようとしない「残党」が大量に残っているのです。

――それは日本でも同様のことが起きていますよね?

そうそう。彼らは有史以来「事実を認めたこと」などただの一度もないでしょうから。

――彼らは詐術のプロですからすべてをすり替え、入れ替えてくるのですよね。

日本の国会議員でも似たようなことがあります。たとえば自身の差別発言によって窮地に立たされたりしているとなぜかタイミング良く「脅迫状」が届いたりするでしょう。

加害者を一瞬で被害者へとひっくり返すという彼ら伝統の「ウソ・エイト・オーオー・システム」です。

――私たちはこれまでそのような手口を見破れなかった。しかし、今はもうそのような手法はすぐに見抜かれてしまいますね。

不思議なことに人類の意識というものが、自然と研ぎ澄まされてきたのかもしれません。

それはひとえにここ数年の驚天動地の世界を潜り抜けて来たからではないかと思います。

――上海閥のボスが消えたことは日本にどのような影響を及ぼしますか?

アリババ創業者の馬雲(ジャック・マー)氏を筆頭に「残党」が挙(こぞ)って日本に逃げ込んできていますでしょ。だから表向きでは中国の上海閥、つまり中国の満州関東軍清和会は終わった。

でも「残党」が日本に大挙して入って来ているということは莫大な資金を携えて入って来ているということです。そして日本で彼らを受け入れる体制があるのでしょう。

ボスの終わりを予感したためか、コントロールされた学生たちは蜂起しました。

彼らは絶対にあきらめないことで知られています。だから日本でも同様のデモが発生しましたよね。日本のそのデモは11月26日の夜から27日にかけて新宿で起こされました。

上海閥のボスが消えたのは11月30日でしょ。

――そこからの中国でも感染者急増ということですね。

水面下に隠れていた「残党」が一斉に表に顔を出すでしょうから。だから「終わった」のだけれどもその後処理が結構派手なことになる。あのデモをやっている本質は何なのか?

「感染者数」というものが一体何を意味しているのかということです。

すべてはデジタル領域で起こっているのです。これを見抜けないとなかなか厳しいものがありますよ。そのおかげで表の一般市民は公共の場で「PCR検査陰性証明」を提示する義務から解放されました。この緩和措置は12月7日からです。

――でもその「残党」の大物たちの多くが続々と日本に入って来ているのですよね。

だから日本が「第8波」ということになって来る。

――日本がまさに最終的な舞台になるということですか?

そうです。これからですよ。だから日本ではまだマスクを外せないというか、これは強制でも何でもないですし、すべて自由ですが一応、提案として「しておいた方がいいんじゃないですか?」ということになります。

――マスクを奴隷の象徴だとして敵視している方もたくさんおられますよね。

凡百な市井の大衆ならではの意識領域をもってすれば、それも至って当然な反応だと思います。彼らにとってはそれこそが「真実」と映っているでしょう。

つまり「真実」を追い求めると失敗するのですよ。マスクにせよ何にせよ、ひとたび何かを

「敵」と規定した瞬間に、その者は、この二元論世界への強固な忠誠を誓うことと等しくなってしまうからです。

――「良かれと思って」という正義心には大きな罠が隠されているということですね。

「良かれと思って」とは換言すれば、相手からすれば「ありがた迷惑大きなお世話」となるケースが多いかと思います。そのような浅薄な古いコードの「正義心」をもって人の行動、人生を変えることができるのだと考えるということは、これ、きわめて傲慢なことなのだということ。

本来ならばこのことに人生の日常のある場面で、己自身で自然にふと気づけなければいけないのです。

いくら説得しても言うことを聞かない相手に対して「あなたは眠ったままの無知な羊だ」と

宣(のたま)うことができてしまうという、その傲慢性を客観視できるようになって初めて

人としての成長成熟がある程度見込める状況にあるのではないかということが、あくまで推測されるようになるのです。

「穴があったら入りたい」、これ以外に人を成長させる経験を私は知りません。

「無知」なのは何を隠そう私自身だった!と気づくことができるかどうか。

――「恥じらい」を持っている人であるならば、自分自身を「覚醒した」だなんて言えるはずがありませんよね。

「ボクが納得できる真実」を追い求めると失敗するのですよ。その「真実」は現状の己の知的レベルに相応したものだけです。己の知的レベル、知識レベル、経験レベルを超えたものは絶対に「見えない」し「理解できない」し「納得できない」のです。

――「真実」という言葉はある意味危険ですね。

容易に乱用されていますが、きわめて危険です。「真実」という言葉は、ニセモノの覚醒において、それがあたかもホンモノであると、無明なる人たちに錯誤させるためにあるガリチア的方便でもあると言ってもいい。

――多くの人は自分の考えこそが正しいと思うでしょうし、しかしそれが人情であるともいえます。斜に構えたシニカルなマイノリティを自称していながらも、じつは心の底ではマジョリティ側でありたいと無意識では思っているからこそ、その「真実」を声高に叫んで他人に強いようとするのでしょうか?

強烈な承認欲求の発露であるだろうし、しかし社会から承認されるためには実力がないといけませんよね。実力はないけれど認められたいと考えるのが凡才だといえます。

自己顕示欲の強い凡才は天才を装います。できるだけ奇抜に派手に、そして目立つ言動を行い耳目を引こうとします。これが「ノイジー・マイノリティ」です。

この場合の「マイノリティ」とは実力の度合いを指します。

では一方で本物の天才はどうでしょう。イチロー選手や大谷選手とかはよく「あの人は天才だ」とか言われたりしていますが、天才というのは本来凡百な市井の大衆には知覚できないから天才なのでしょ。しかし世間一般に語られる「天才」とは、打率が凄いとかPKが上手いとかそういった、普通の人々にとって理解しやすい分野で秀でている場合です。

もし多くの人が「あの人は天才だ」って考えた場合、それは「普通の人が考えるお誂え向きないわゆる天才像に合致した人」に過ぎないのだということです。

ホンモノの天才の存在はほぼ誰にも知覚されないのです。誰にも相手にされないことが多いのです。ひとりぼっちですし、例えようのない孤独ですよ。

そしてここで重要なのは、ホンモノの天才は、一般大衆の目からは「馬鹿」に見えているのだということ。この不遇こそが天才の天才たる証拠なのです。

ですからホンモノの天才は往々にして「普通であること」に憧れています。

これが「サイレント・マジョリティ」です。

凡才と天才では量子もつれを起こす二者の存在がまったくの逆位相に位置していることがわかります。ですので凡才と天才はもっとも懸け離れた存在なのだということ。

――つい人は己を誇ったり傲慢になりがちです。「真実」と思って疑わない幼稚な己を自覚するためにはどうしたら良いでしょうか?

先ほど「真実」を追い求めると失敗すると言いました。その失敗をより確かなものにするものとは「喜怒哀楽」です。「正義の怒り」「悪への怒り」「絶対に許せない」「我慢できない」「仕返ししないと気が済まない」「やっつけてやりたい」こういったものが判断を鈍らせ誤らせる主因となります。

己を振り返ってもし「感情」で行動を左右していた場面があれば、これは非常に酷な言い方かもしれませんが、それは己がまだ「三流」であったのだと断定していい。でも己が三流であったと気づくことができた者は、その後ものすごく伸びてやがて一流になる。

――ジャンルは問いませんが、「一流」の人には何か特徴がありますか?

世界のトップクラスの人たちには必ず右腕となり得る敏腕プロデューサーの存在があります。アーティストの才能を引き出し、頂点を極めるきっかけを創出するのが名プロデューサーです。

ここで重要なのはその敏腕プロデューサーは、アーティストの部下などではなく、才能や人間力がまさに比肩していなきゃいけないというかなり厳しい条件が付くことです。

多くのアーティストの場合、芸術的な才能はあっても、自身を売り込みプロデュースすることを苦手とします。セルフプロデュース作品が大体失敗するのはこのためでしょう。

そのアーティストの本人すら気付いていない才能を引き出し、可視化し、作品化にまで持っていくのが敏腕プロデューサーです。

この「プロデューサー」という肩書に固執する必要はありません。職業的肩書きとは別でいるのですよ。それは思わぬところに存在していて、そのプロデュースはすべてナチュラルに行われていくのです。

マイケル・ジャクソン氏にとってのクインシー・ジョーンズ氏、宮崎駿氏にとっての鈴木敏夫氏、ジェームズ・キャメロン監督にとってのジョン・ランドー氏、ハリウッド映画にとってのジェリー・ブラッカイマー氏、SMAPにとっての飯島三智氏、桑田さんにとっての原坊、

ミスチルにとってのコバタケ氏、Bon Joviにとってのデスモンド・チャイルド氏、メタリカにとってのボブ・ロック氏などがあります。(※もっと他にもいろいろあるでしょう)

アーティストは決して「ひとり」では出て来れない。もちろんアーティスト以外にも実業家だったり、作家であったり漫画家でも何でもそうです。有名漫画家にも必ず敏腕名物編集者がついていますよね。その才能と均衡し量子もつれを起こすだけの力量を持った「もうひとり」が必要なのです。

――言われてみれば確かにそうなっていますね!

そういった意味で、私は小野さんにプロデューサーを任せているのですよ。仕事のやり方とか方向性とか多くの部分について、私が気がつかないようなことを小野さんはちゃんと気付く。そのどれもが的確なので私は小野さんを信頼しているわけです。だから小野さんの直観に基づいたサジェスチョンを私はきわめて重要視しているのです。

だから「首席補佐官」と呼ばせていただいています。無論、私は有名になる気ゼロですけど。

――恐縮です…、でも澤野さんはもうすでに有名ですって。

やめれ(笑)、私は一介のさざれ石としてこの世に介在することの方がむしろ大事なこと。

あと、有名になる以上に面白いことがあることを私はすでにある程度理解してしまっているのです。

――先ほどの「感情」の話しに戻りますが、確かに澤野さんの文章で感情的な部分を見たことがありません。でもどうしてこの世はこれほどまでに、そういった「感情」によって支配されてしまっているのですか?

この世界は完全なるホログラムの世界です。毎日毎秒常に人類がこのホログラム世界を疑うようなことのないように、日々の雑事に没入させ耽溺させるための、コンテンツが無限に供給されています。ですので感情に左右されてしまうということは、じつはこの世を投影し描写する量子コンピュータによるひとつの「愛」が結実したものであるとも言えるわけです。

また同時に逆にですよ、他者に対して感情を意図的に鼓舞させたり、感動を誘発させたり、

涙を誘ったり、あるいは自らが涙ながらに話したりと、そういった話法を用いる者というのは、うっかり感情に左右されやすい非知的階層の方々を、操り搾取しようと企図する詐欺師であるか、もしくはその素質がある者の黎明といえましょう。ガリチアはそうやって生き延びて来ました。人情噺は映画か落語までにしておいた方がいい。

――話は戻りますが、これからこの日本が最終的な「舞台」になるのだと理解して良いのでしょうか?

7月8日のインシデントをきっかけとして、警察、検察、中でもとりわけ東京地検特捜部が

にわかに「本来のポテンシャル」を回復してきました。その具体的なメカニズムについては、

社会に対して刺激が強すぎるのでここでは申し上げません。

「日本が最後の舞台」と私が申し上げてから方々で同様のことが言われるようになったようですけれども、その本質の部分については多くの方々は意図的にか無意識的にかはわかりませんが、沈黙したままのようです。

彼らは何を話し、何を沈黙すべきかちゃんと知っているところが驚きではあります。