3084「青空ひろば」2023.6.6 自分で自分を自分するから

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今回は立花大敬さんのワンディー・メッセージ「青空ひろば」から最新の記事を紹介します。

963 2023.05.03 ~990 2023.05.31

空海さんの『即身成仏儀(そくしんじょうぶつぎ)』の解説をしておきたいと思います。

この『成仏儀』では、なぜお経を称えたり、印を結んだり、行を実践したら、仏や菩薩と通信回路がつながり願いが叶うのか、その理論的根拠を、空海さんは懸命に探っておられます。

そして空海さんによって解明された理論は、仏教のご利益に限る話ではなく、神道やキリスト教の行の実践においても同様に成立するような、極めて普遍的なものとなっていて、さすがは空海さんだなあと思います。

この論文では、まず空海さんが二篇の自作の詩を紹介されて、その後、自らの詩を解説するというスタイルで論を展開してゆかれます。空海さんはなかなかの自信家ですね。

二篇の詩のうち、はじめの詩の解説が詳しくて、後の詩の解説は概説です。

はじめの詩は『即身(身に即して、大宇宙や万人や神や仏とつながる理論的根拠)』について述べられ、あとの詩で、『成仏』が述べられているとされていて、空海さんの興味の中心が、『即身』にあったということがよく分かります。

つまり、どうして限界と制限を持った有限の人間が、無限で全能の仏(大宇宙)と結ばれ、自身の想いをテコにして、仏(大宇宙)にはたらいてもらえるようになり、世界を改変してゆけるのでしょうか。

空海さんはそういう体験を、若い頃から何度もしておられたのですが、なぜそんな奇跡的とも思えることが実現するのか、その理論的根拠を空海さんは知りたかったのですね。

今回は、最初の『即身』の詩のはじめの2行に絞って、私なりに解説させて頂きます。

六大無礙(ろくだいむげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり

四種曼荼(ししゅまんだ)各離(おのおのはな)れず

三密加持(さんみつかじ)すれば速疾(そくしつ)に顕(あらわ)る

重重帝網(じゅうじゅうたいもう)なるを即身(そくしん)と名づく

今回は、まず『即身』の詩の1行目の解説です。

<六大無礙(ろくだいむげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり>

「六大」とは、「地・水・火・風・空・識」のことで、人や宇宙を構成する六つのエレメント(元素)のことです。

「大」がつくのは、それらのエレメントが、局所だけに片寄って存在するのではなくて、偏在し、お互いに浸透しあっているから「大」をつけたのです。

たとえば、大地や人の肉体では、「地大」のエレメントの密度が濃いのですが、木や石や空間の中にさえ、「地大のエレメント」は存在しています。ですから、空中から砂や土や金銀を取り出すことだって出来るのだというのです。サイババさんなんかはその一例ですね。

もちろん、めったやたらとそういう現象が起こるのではなく、「識大(人の想い)」の介入が、そのような奇跡のような現象を引き起こすのですね。

また、金属の中の「火大」を大きくして、金属をグニャグニャにしてしまうのが「スプーン曲げ」ですね。この場合も、「識大」の介入がありますね。

人の「地大」は、大地の「地大」と分離していなくて融合一体です。ですから、人の身体の「地大」を整える行に連動して、日本や世界の大地を整えることも出来るのです。

以前、しあわせ通信に「雨降らしの名人」の話を書きました。

この名人は、自分自身の心の「び」を反省し懺悔して、自分の心に潤い(水大)を復活させることによって、乾燥した大地に雨を降らせることが出来ました。

笹本戒浄(ささもと かいじょう)という方がいらっしゃいました。

この方は東大で心理学を研究され、あわせて仏教心理学である唯識(ゆいしき)の理論を研究され、その後、禅を修行されて、最後に山崎弁栄上人(べんねいしょうにん)との出会いがあり、上人に帰依されてお念仏行者になられたという方です。

笹本戒浄先生の講義を能美壽作という方が筆録されて、『真実の自己』というタイトルで出版された本があって(『光明主義編集局』、昭和19年発行、非売品)、それはそれは素晴らしい内容のものです。同じタイトルで現在出版されているものもあるのですが、何だかもの足りなくて、私が手に入れた昭和19年の本の方がダントツ素晴らしいです。

笹本先生は東大で、大澤謙之先生の「精神物理学」という科目の講義受けられたのですが、大澤先生が講義中に実際にやって成功されたという、次のような催眠術の実験の話をされています。 

学生Aに催眠術をかけます。そして、Aの前の学生Bを立たせます。

学生Aに、「君の前に学生Bが居るが見えるか」と聞きますと、学生Aは、「はい、見えます」と答えます。

次に、学生Aに「君の前に立っていた学生Bは、他の所に行ってしまった」と暗示を与えます。すると、学生Aには、Bが他の所に歩いて去って行くという光景が見えます。

そうなると、学生Bが学生Aに話しかけても、学生Aにはまったく聞こえなくなります。

やがて、学生Aは催眠状態から解かれて平常の状態に帰りましたが、学生Aは相変わらず目の前に立っている学生Bを見ることが出来ません。

学生Bが帽子をかぶると、「あっ、帽子が宙に浮いている」と驚いています。

学生Bが学生Aが持っているものを取ると、Aは何かえたいが知れない恐ろしい力が自分の持っているものを取っていったと驚いています。

学生Bがかぶっていた帽子を、Aには見えない、Bの背中側に手で移動させると、Aは、帽子が下に移動して留まっているといいます。

帽子を背中で上下させると、帽子が上下に動いていると言います。

学生Bの背中の後ろ側の、Aからは決して見ることが出来ないはずの帽子だって、学生Bは去ってもういないんだと思いこむと見ることが出来るようになるのです。

学生Bは居ないという「識大」の信念の力によって、Bの体の「地大」が縮小して現象界から姿を消し、同時にBの体の「空大」が前面に現れて、体の後ろ側にある帽子が見えるようになったのですね。

坐禅をしていると、壁の向こう側の光景が、アリアリと、克明に見えるようになったりしますが、これは、その人の坐禅が「空」の境地に近くなると、壁の「地大」が消えて、「空大」が優勢となるので、そんなことも起こるのでしょう。

しかし、先ほどの学生Aの催眠実験で、AにはBが見えず、Bの声が聞こえないけれど、もし、学生AをBの方向に真っ直ぐ歩かせると、学生AはBに、やはりぶつかってしまうのだそうです。

学生Aは、何だか知らないものがボクの前進を妨害したと感じるのですが、眼や耳の感覚にはいなくなってしまったBが、触覚には、まだ厳然と存在しているというわけですね。

そこで、笹本先生は疑問を抱いたのです。

唯識学では、『三界唯心(識)』といって、その人の想いが投影されて世界が刻々創られてゆくのだとします。

そうすると、学生Aは、Bがいないと思い込んでいるのだから、もう目の前のAの世界には、Bはいないはずなんです。

確かに、眼や耳では、そういう世界状態が実現していましたが、触覚の世界には、まだBはいるわけです。

ですから、唯識学の『三界唯心(識)』というのは誤りではないかと考えたわけです。

そこで、師匠の弁栄上人にそのことを質問しました。

すると、上人は、隋の時代の智頴(ちぎ 天台宗の開祖)大師が著書に、こんなことがあったと、自ら見聞した現象について書いていらっしゃると教えて下さったそうです。

ある人が部屋の中で、壁の節穴をじっと見つめていたんだそうです。すると、なぜかヒョコッと外に抜け出てしまったのだそうです。

壁の「地大」が縮小して、「空大」が拡大し、「風大」の時空移動性が発動して、部屋の外まで移動させたのでしょう。

この場合、どういう状況で部屋の中に居たのかが分かりませんが、もし閉じ込められた状況にあったのなら、解放されたいという「識大」が作用したのでしょう。

白隠禅師の『延命十句観音経霊験記』にも、これと同様の奇跡的な現象が起こったと書かれています。

不義密通が発覚して、風呂桶に閉じ込められ、明日の朝に斬首されることになっていた男がいたのですが、ひたすら延命十句観音経を称えていると、なぜか細い排水パイプを通って外に脱出することが出来たのだそうです。

これらの奇跡的な事例に共通するのは、「識大」が中心的な役割を演じているということで、お経をあげるなどの行で「識大」を統一し、その「想い」を仏や神や大宇宙に届けて、その「無限力」を発動してもらって、「五大」の再構成をして頂くということですね。

ちなみに、空海さん以前の仏教では、「地・水・火・風・空」の「五大」のみを宇宙のエレメントとしてあげており、それなら、仏教の現象世界解釈は、原始物理学の段階にすぎません。

その「五大」に「識大」を加えて「六大」にしたのは、空海さんの独創なのだそうです。

そうなると、「識大」の介入によって、世界は変化し、決定されてゆくという可能性が出てきて、観測者によって世界が決定されるのだという量子力学の理論(意識の介入によって未来が変わるばかりでなく、過去も変わるのだということが、量子力学の最新の研究で明らかになりつつあるそうです)ともつながってきますね。

奈良時代に勝行上人(しょうぎょう しょうにん) という方がいらっしゃって、「五輪観(ごりんかん)」を成就された方であったそうです。

「五輪」とは、「地・水・火・風・空」のことで、たとえば、「地大」に成りきったり、「火大」に成りきったりする修行を「五輪観」といいます。

ある日、勝行上人が道場に入って、あまりに出てくるのが遅いものですから、弟子が様子を見にゆきました。

障子に穴を開けて中を覗いてみたところ、上人がおいでにならなくて、ただ透き通った水があるのです。

『どうも変なところに水があるものだ。本当の水かしらん』と思い、確かめるために、小石を水に投げこんでみました。

すると、チャポンと音がして、その小石が水の底に沈んでゆくのが見えました。

その弟子は、『確かに本当の水のようだな。しかし、変なところに水があるものだなあ』と、不思議がりながらも、部屋に戻ってゆきました。

やがて、上人が道場から出てこられましたが、「どうも胸が痛くて仕方がない、お前達何かしなかったか」とおっしゃいました。

先ほどの弟子が、「私が道場を覗いたところ、道場の中は水満々で、上人がどこにもいらっしゃいませんでした。そこでその水に小石を投げ込んだところ、チャポンと音がして、小石が水に沈んでゆきました」と言いました。

すると、上人は「ああそれで分かった。どうも胸が痛くてしょうがない。明日、その石を取り出してくれ」とおっしゃいました。

次の日、上人が道場に入ってしばらくしてから、例の弟子が、今度は大っぴらに扉を開けて道場に入っていったところ、火炎が燃え盛っています。

近づくととても熱いので、棒を持ってきて火をかき分け、かき分けして、小石を発見して取り出したのだそうです。

そうしますと、上人が道場から出てこられて、「ああ、これで楽になった」とおっしゃったそうです。

「五輪観」という行法があるのですね。

それは本格的な行で、私たち俗人にはとても無理なので、私たちなりの行法として、「五大観法(ごだいかんぽう)」というのはいかがでしょうか。

たとえば、今日は「地大」の日と決めて、その日一日、大地を意識し、大地の恵みについて考え、歩く時は、一歩一歩、大地と対話しているような気持ちで歩き、機会があれば大地に坐ったり、寝転がったり、大地をイメージしながら坐禅瞑想したりするのです。

要するに、その日を、「地大」と親しみ、大地との一体性を確認する一日とします。

そして、次の日は、「水大」の日として、その日一日、水について瞑想します。

このように、順繰りに「地・水・火・風・空」、五日間で、大自然と私との一体性を確認し、養ってゆくわけです。

いのちが磨り減って、やる気がなくなった時に、この「五大観法」を実践すると、いのちがしっかり充電できて、また「やる気」を取り戻せると思います。

さて、これからがいよいよ空海さんの詩の二行目の解説です。

<四種曼荼(ししゅまんだ)各離(おのおのはな)れず>

「曼荼」とは、「曼荼羅(まんだら)」のことです。

「曼荼羅」は、「輪円具足(りんえんぐそく)」を表わすと仏教辞典にはあります。

「輪円具足」とは、「すべて完備している、欠けたものは一つもない」という意味です。

たとえば、目の前にペンが一本あるとします。

そのペン一本に、「宇宙の全体」が包含されていて、見る人が見ると、つまり、そこまで魂が進化した人がそのペンを見ると、そのペン一本から、宇宙全体、時空全体の必要な情報がいくらでも引き出せるのです。禅の難しい公案でも、数学の難問でも、一本のペンをしばらくジッと見つめているだけで解答が出てきます。

これは、最高レベルの人の話ですが、そこまでいっていなくても、現象世界レベルでの「曼荼羅」を読み取れるという人もいます。

そんな人は、心境がすぐれているというのではなくて、そういう方向に特化したいのちの能力をもっているという人たちです(速く走れたり、高くジャンプ出来る人がいるというのと同じ)。

たとえば、「サイコメトラー」がいます。

そのタイプの人は、「サイコメトリー」という能力をもっています。

「サイコメトリー」とは、物品に残る、その物品に関わった人の残存思念を読み取るという能力です。

よくテレビで、行方不明であったり、殺されたと思われる人が身に着けていた衣服などから、その人が現在いる場所や死体の位置を、「サイコメトラー」を招いて調査するという番組がありますね。

この「曼荼羅」には、四種類あると空海さんは言います。

それは、「大(だい)曼荼羅」、「三昧耶(さまや)曼荼羅」、「法(ほう)曼荼羅」、「羯磨(かつま)曼荼羅」です。

仏・菩薩の全身を描いた図や、彫像などが「大曼荼羅」です。

これだけで充分「大曼荼羅」なのですが、さらに多くの人たちに分かってもらえるようにと、説明的に、大日如来を中心として、あらゆる菩薩や天神や修羅・畜生・地獄界の住人に到るまでを図に細かく描きこんで、大日如来という存在に宇宙全体、すべてのいのちが「輪円具足」している様を描いたものが、私たちがよく眼にする、真言宗の「胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅」や「金剛界(こんごうかい)曼荼羅」です。

また、その仏・菩薩が組んでいらっしゃる手印や、持っておられる蓮華や刀剣や金剛杵(こんごうしょ)などの、その仏・菩薩を象徴するシンボルグッズが「三昧耶曼荼羅」です。

たとえば、観音さまのシンボルグッズは「蓮華」で、普賢菩薩は「白い象」で、文殊さんのそれは「剣」、「経巻の巻物」や「ライオン」などです。

それらのシンボルグッズは、単なる象徴というのではなく、そのグッズだけで実は全体なんだよというのです。

たとえば、「蓮華」を自身で描き、あるいは描かれた「蓮華」や写真に意識を集め、合掌礼拝すれば、もうそれだけで観音さまの全体を礼拝したことになるというのです。

ですから、その「蓮華」に向ってお願い事をすれば、その願いが間違いなく観音様に届き、「観音力」を発動してもらえるんだというのです。

また、仏・菩薩の口から発せられた言葉の響き、お経の全文や、各菩薩の短い真言などを「法曼荼羅」といいます。

たとえば、「延命十句観音経」も「法曼荼羅」で、称えると必ずその響きに乗って称える人の願いが、観音さまや天神さまや仏さままで運ばれてゆき、送り届けられるのです。

お地蔵さんの真言は「オン、カカカ、ビサンマエイ、ソワカ」です。 意味は「帰依します、ハハハ(笑い声、お地蔵さんは笑い・楽観・安心を授けて下さる菩薩です)、稀有なる方よ、めでたし」です。

この真言を繰り返し称えれば、お地蔵さんと一体化して、お地蔵さんの本願である、「笑顔と楽観と安心」が、あなたの身につくようになります。

そして、仏・菩薩が、各自が分担されている本願(天命)のままに働かれている姿が「羯磨曼荼羅」です。「羯磨」とは、「行動」という意味です。

観音さまは許しと受容と安心を授けてくださり、文殊さんは智慧と決断と勇気を授けてくださり、普賢さんは粘り強く行動する力を授けて下さいます。

たとえば、延命十句観音経などの観音様のお経を称えると、その願いが間違いなく観音様に伝わり、そうすると自動的に「観音力」が発動されて、称えた人の願いをかなえて下さるのです。

つまり、空海さんの詩の二行目は、「相(姿)」が、実は部分ではなくて、その「相」だけで、実は全体なんだよということが言いたいわけです。

それが私たちにとってどういう意味があるのでしょうか。

この空海さんの、「部分即全体の宣言」は、私たち庶民にはとても大きな恩恵なんです。

というのは、ある特定の権威あるお寺で、資格を持ったお坊さんに、特別のご祈祷をお願いしなければ「観音力」が発動しないというわけじゃないんだよと言っておられるからです。

一枚のお粗末な紙に描かれた稚拙な仏様の絵姿であっても、仏像の写真であったとしても、空海さんが保証して下さっているように、そこにきっと仏様の全部が宿っているんだと信じて合掌礼拝し、その絵像を生き身のごとく敬って、あなたの願いをひたすら祈れば、必ず「仏力」を発動してもらえるんだと保証して下さっているわけです。

もう少し、現象界に近いところの「曼荼羅」についても、具体的な例で説明しておきましょう。

観相家という人たちがいます。江戸時代の水野南北などが有名ですね。

観相家は、まず依頼者の、姿勢やカラダのクセ、歪みなどを観ます。そんなカラダの姿勢やクセなどから、その人の過去がどうであったかや、現在の状態や、未来の運命の方向性が読み取るわけです。

なぜそんなことが出来るのかというと、その人のカラダの「相」に、その人の運命の全体が包み隠さず表現されているからです。

つまり、これが「大曼荼羅」にあたるわけですね。

逆に考えると、たとえば坐禅のような、お釈迦様と同じポーズ(「相」)をとると、もうそれだけで、従来の運命を、お釈迦様と同様なしあわせで実り豊かな人生に転換出来るということでもあるのです。

次に観相家は、その人の顔の表情(人相)を観察します。

また、相談中の人のゼスチャーや手指の表情などを観察します。

また、手相を拝見すると、その人の運勢がさらにはっきりします。

これが、「三昧耶曼荼羅」にあたりますね。

真言宗には、無数の手印があって、いろんな場面で組んで、特定の効果をねらうわけですが、出家者にしか伝授しないということがあって、私たち俗人には縁がないことなんですが、私たちにも出来る「印相」はいくらでもあるのです。

たとえば、「拍手」には、悪因縁を断ち切ったり、自分や他の人のいのちを活性化する働きがあります。

「合掌」は、自と他、現状と目標を一体化させる働きがあります。

「グー・チョキ・パー」だって立派な「印」です。

「グー」には、意志を強くする働きがあります。

「チョキ」には、過去を断ち切る働きがあります。過去のつらい出来事を思い出して暗い気持ちになった時は、「チョキ・チョキ」ポーズを使ってください。

「パー」のポーズで、手をブラブラ振ると、身心の固まりを解くことが出来、これまで気が付かなかった妙案を思いついたりします。

観相家はさらに、依頼者に質問して答えてもらい、その声の響きからも沢山の情報を汲み取ることができます。

明るくて開放的な人は「あ音」が伸び広がります。

意志が強い人は「い音」が力強いです。

エネルギッシュでたくましい人は「う音」が低くて太いです。

「え音」が横に広がる人は、人との関わりに長けた人です。

「お音」が心地よく響く人は、調和・バランス力があり、組織の長となれます。

これが「法曼荼羅」にあたりますね。

「尽十方界(じんじゅっぽうかい)、沙門(しゃもん)の家常語(かじょうご)」という禅語があります。その意味は「君(沙門)の日常の言葉(家常語)は、実は宇宙いっぱいのもの(尽十方界)なんだよ」です。

つまり、「おはよう、元気!」というような、日常の当たり前の挨拶ことばであっても、その響き次第で、自らを解放し、声かけした相手の人を閉じ込めていた「岩戸」を押し開くことだって出来るのです。

禅が目指すところは、そんな人物となることです。

つまり、ちっとも宗教ぽくなくて、ごく普通の、当たり前の生活を送りながら、なぜか縁ある人々や動物を安心させ、いのちを解放してゆくのです。

また、観相家は依頼者のふるまいを観察します。

自信がなければ猫背になり、視線が落ちますし、空威張りの人は、腕を横に振って、あごを上げて肩をゆすって歩きます。後ろめたい人は、なぜか後ろを振り向き、振り向きしながら歩いてしまいます。

これらが、「羯磨曼荼羅」にあたりますね。

その人の「一動一作」に、その人が住んでいる世界、心の状態の一切が如実に表現されていて、けっして隠すことが出来ません。

私が勤務していた学校は、上海中学(中国の「中学」は、日本の「高校」にあたる)と交流していて、生徒を引率して上海に出かけたことがあります。

その時に気になったのが、低所得層の労働者の人たちの勤務中の態度、行動です。

中国の彼ら、彼女らは、いかにもつまらない仕事をしているという動作ふるまいでした。

不平不満一杯の表情で、お客に対して、感謝の言葉ひとつ掛けずに、商品を投げるように渡したりします。  

日本に帰って、同じ階層の人たちの仕事ぶりを観ていると、彼ら、彼女らは、自分の仕事に誇りをもって、生き生きと、キビキビと働いていました。 

そして、仕事に誇りがあるので、日本の労働者の人たちには、仕事に対する向上心、工夫があるのですね。

もっと効率よく仕事をするにはどうすればいいか、お客様にいっそう満足していただけるにはどうすればいいか、絶えず工夫しているので、行動に無理と無駄がなく、その動作が、理にかなってとても美しいのです。

日本人には、労働は神聖なもので、どんな仕事でも、人々のしあわせのために貢献する尊いものなのだと自然に思え、中国の人たちにとっては、仕事は単にお金を稼ぐための手段にすぎないのだなあと感じたものでした。

ただし、これは十年ほど前のことなので、現在の中国の状態がどうなのかは分かりません。