その人は仙台空港の二階待合所に立っていました。
見るからに死期が迫っている感を受けます。
その人Yさんはその時2014年当時で72歳
でしたでしょうか。
7歳先輩です。
精気のない表情から、「ほんとうだったんだ・・」と
感じます。
「山田さん、俺もう心臓が良くなくて
三か月くらいって医者に言われたんだ。
だから死ぬ前に山田さんにもう一度会いたいんだ。
何にも食べれないから、仙台空港で会ってください。
そこで山田さんは食事してください。」
そんなお電話をいただいてすぐに仙台の天命塾の
会合に合わせて伺ったのです。
お話はまだ自分が22歳のころに戻ります。
土木建設の会社勤めが始まりました。
最初は関越道川越工区工事。
そこでYさんと初めての邂逅があります。
Yさんは自分という新入生の指導員。
毎日毎日Yさんの後ろに金魚の糞のように
くっついて動きまわります。
Yさんはとても寡黙な方。
一切何も語らず、行動の指示はすべて
ジェスチャーなんです。
主に高速道周りのU字溝の敷設や道路を横断する
排水のコンクリートパイプの埋設などを体験しました。
その後Yさんの勧めもあってか、次の任地である
北陸高速道路の工事にも同行となります。
そこは富山北陸道小杉工区工事。
西から走ってくると丁度立山連峰が目の前に
迫ってくる絶景の地でした。
夏には毎日のように一時的に雨が降る富山、
そして冬は雪で工事を休みます。
普通より長い長靴を履いて作業しなくては
ならない理由は、その高速道路の地盤にありました。
足を田んぼに入れますと、ズブズブと半分くらい
入っていきます。そんなところに高速道路ができたのは
石灰安定処理という土の改良方法があったからです。
そんな場所ですから、当然のように作業服は
どろどろになります。
ある日Yさんはめずらしく口を開きました。
「服が汚れているからといって、よくはたらいているとは
いえんからな!!」
なんと理不尽な!とムカッとしました。
ですがよく見ますとYさんの作業服は汚れていません。
「そうなんだ汚さずに注意深く動けば大丈夫」
その後の人生の大きなお言葉でした。
その工事が終了し次は「日光宇都宮道路工事」の
現場へと移ります。
そこへもYさんと共に移動します。
結婚した自分の荷物を新しい家にすべて手配して
移動し運んでくださったのはYさんでした。
自分は他の仕事で動けなかったのです。
Yさんはそこでの工事が始まってしばらくで
他の現場へと移動して行かれました。
そこでがYさんとのお別れとなります。
Yさん33歳の年です。
自分は25歳になっていました。
その後工事終了間際となった日光の現場をあとに
会社を退職し名古屋へと戻ります。
妻の実家の仕事に移るためでした。
26歳になっていました。
そしてその後も何かとときどきお電話をいただき
情報や考え方の交歓をしていただきました。
2011年9月仙台方面にお住まいだった
Yさんに震災が襲います。
すぐに電話がありました。
「子供たちが放射能で危ないと、みんな不安に思っています。
孫たちの幼稚園に何かできることはないでしょうか?」
その電話を受けて、息子Tはどんどん空気活性機をYさんや
仙台の天命塾に送ります。
真剣でした。Tはよくやったと思います。
またテネモスさんのほうからも夜を徹して製造し
すべて無料で仙台の天命塾に送られました。
そんなことがあって関係の方々にはなんの不安もなく
無事だったとあとからお電話。
安堵しました。
その三年後に「もうだめなんだ」という連絡があったのです。
先輩に何を持っていけばいいんだろう。
思案です。食べることが出来ないのにお菓子も何だし。
そのとき急に直感が閃いたのです。
「ピッコロだ!」
木製のピッコロを持参しました。
空港で会ってすぐにピッコロのお話をします。
「今日から胸のポケットにずっと入れておいてください。
眠る時もです。分からなくても信じて!」
仙台空港でのお別れは、ほんとうに最後と
予感させましたが、二週間ほどたってお電話。
「山田さんあれはいったい何ですか?
最近ちっとも胸が痛まないんです。
医者に聞かれても理由の説明のしようがないし。
それで済みませんが同じものを九州の自分の師も
同じことで悩んでいるので送ってください」
よかったなあと思いました。
それからすでに9年が経ちます。
三か月はとうに過ぎています。(笑)
人生の大先輩Yさんのことが再び蘇った
令和5年8月9日という日に書くことが出来て
感謝で一杯になりました。
Yさん82歳自分75歳の誕生日の今日という日です。
Yさんは亡き兄と同い年。
人生は縁起だとしみじみ思わせていただきます。
Yさんありがとうございます。
大変お世話になりました。