古賀 稔彦 柔道家
日本に帰国すると、私を取り巻く環境が驚くほど一変していました。成田空港から出発するまではマスコミで散々取り上げられ、「頑張れ頑張れ」と声援を受けていた私が、一点して誹謗中傷の的となったのです。「古賀は世界では通用しない」「あいつの柔道はもう終わった」など、なぜそんなことを言われなければいけないのかとただただ憤慨するばかりでした。そして気づけば、私の周りからは潮が引くように誰もいなくなったのです。人間なんて誰も信用できない。この時、私は人間不信に陥ってもおかしくないくらい激しく気持ちが落ち込み、とにかく人目につくのが怖くて、自分の部屋に閉じこもりました。
そんなある日のこと、何気なくつけていたテレビの画面に、オリンピックの総集編が流れ始めました。番組では華々しく活躍する選手たちの映像と共に、惨敗だった日本柔道の特集も組まれており、三回戦で敗退した私の試合も映し出されます。ところが次の瞬間、画面に釘付けになりました。なぜならカメラが観戦席で応援していた両親を映したからです。おもむろに立ち上がった両親は試合会場を背にすると、日本から応援に駆けつけてくれた人たちに向かって、期待に応えられなかった私の代わりに深々と頭を下げていました。中学で親元を離れてひたすら柔道に打ち込み、ほとんど顔を合わすことがなかっただけに、久しぶりに見た両親が謝っている姿に私は大きなショックを受けました。
心の変化はそれにとどまりません。いまの自分が無性に恥ずかしく思えて来たのです。それまでは、「おれが練習して、おれが強くなって、おれがオリンピックに行って、おれが負けて、おれが一番悔しいんだ」と思っていました。ところが両親の姿を見ているうちに、闘っていたのは自分一人ではなかったことに気づかせてらったのです。すると驚いたことに次々と私をサポート、応援してくれた人たちの顔が浮かんできました。例えばオリンピックに向けて練習相手になってくれた仲間がいました。彼らは試合に出られないのに、わたしのために何度も受け身を取ってくれました、しかし当時の自分はそれが当たり前のこととしか受け止められませんでした。また、たくさんの方からの声援や心のこもったお手紙を何通も頂戴しましたが、応援されることがあたりまえと思っている自分がいました。
ところがこうして少しずつ周りが見えてきたことで、自分の後ろにはこんなにもたくさんの人たちが一緒に闘ってくれている。だから安心して闘っていいのだと思えるようになったのです。そしてこれを機に、それまでの自分が嘘のように前向きになることが出来ました。もう両親に頭を下げさせてはいけない。そして自分をサポートし、応援してくれた人たちにも絶対喜んでもらいたい。そのためにはオリンピックで負けたのだから、次のオリンピックで金メダルを取って恩返ししようーー。この時に抱いたこの思いこそが、四年後のバルセロナオリンピックにおいて、怪我で苦しみながらも金メダルを獲得することができた大き原動力となったのです。