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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年05月05日「真実が明かされる時」と2024年05月07日「おかげさま」 の2つの記事を紹介します。
「真実が明かされる時」
もう数千年も、ある意図を持って隠されてきた真実があります。
そして同じく数千年の時を掛けて、その秘密を明かし、人々を幸せにしようという勢力による努力もなされてきました。
そして、沢山の人々の努力により、その隠された真実が今明かされようとしています。
その隠された真実とは、私達の心の中には神さまがいらっしゃるという事。
それは、誰一人として、例外なくです。
私達の心は、巧妙な手段によって、がんじがらめにされてきました。
キリスト教では、私たちは生まれながらの罪人であると教えられて来ました。
ボロボロになるまでも自分を犠牲にし、他人に尽くしなさいとも教えられました。
自己所有の私の・・と言う言葉が生まれました(縄文の時代には存在しませんでした)
その結果、所有慾が生まれました。
持てる者、持たざる者の違いが生まれました。
それによって、嫉妬心が生まれました。
嫉妬、やっかみ、ねたみ、ひがみ、焼きもち・・・これらは、心を曇らせます。
支配と依存の心が生まれました。
自分さえ良ければの心が生まれました。
持たざる者は、常に将来の不安・恐怖を抱くようになりました。
自分の思い通りにならない事、思い通りに動かない人々のことを許せなくなりました。
ですが、私達の心の中には神さまがいます。
良心があります。
その結果、良心と、悪い心の狭間で、葛藤が生まれました。
人を許せないのと同じパワーで、自分自身も許せなくなりました。
私達は生まれながらの罪人と教えられて来たからです。
でも、この数千年の間、その呪縛を取り除く努力も綿密に計画され、実行されてきました。
私達の心の中には「神さま」がいるという事。
心に静かに問いかければ、誰でも内なる神さまの声を聞けること。
時代はもはや、助けてくれる神々や、頼れる師を外に求める時代ではなくなりつつあります。
自分が自分の心のよりどころとなる時代に入ったからです。
そのよりどころとは、私たちの中に何時もいらっしゃる「神さま」です。
それは、数千年にも渡り隠そうとしようとして来た勢力と、それに抵抗し続けた勢力の
せめぎ合いの時代でした。
それでも今、着実に真実を明らかにし、人々を幸せにしたいという願いが、実現しつつある時代になってきました。
自分の可能性を信じ、自分を受け入れ、人のあるがままを許し、自分のあるがままを許し、
そして自分を認めていく段階に来ました。
それが出来た時、初めて私達は自分自身を愛し、その内なる可能性を信じ、自らの足で
歩み始めることが出来ます。
真の意味で人に優しくすることができます。
私達の心の中には神さまがいます。
全ての人の中にいます。
自分自身を許し、受入れ、慈しむことが出来た時、
その「神さま」は輝きを増します。
私達が常に恐怖に苛まれ、
愛の欠乏を感じ、苛立ち、人を、自分を、許せなくなるのは、その様に仕向けて来た
者達がいたからです。
巧妙でシステマティックな手段でした。
ですがそれと同じく、陰があれば陽があるように、その隠された真実を元のように、
表に出そうと、努力してくれていた命がありました。
私たちは、自分自身を卑下する必要はありません。
イエス自身が仰ったように、私達は一人一人、誰もが尊い存在だからです。
でも、最後の扉は自分で開かなければなりません。
その方法は、非常にシンプルです。
置かれた場所で咲きなさい。
そのように生きることです。
私達の中には、宇宙の根本法則である神さまが居らっしゃいます、
それは本当は私達自身であり、私達の良心です。
それに気付き、知ること。
その神さまは全ての私達の属する宇宙の運航、そして身近な出来事、人との出会い、
別れさえも決めています。
今、自分がいるそのままの場所・環境の中で、全てに感謝して輝き、そして幸せになること。
それこそが、今の時代に生きる人々に求められています。
ブッダの時代から数え、2回目の1,200年ごとのサイクルの中で、今、その段階に入りました。
「おかげさま 」
私たちの心は強力で、広大です。
見える世界、見えない世界を包み込んでいます。
例え、神様・仏様、能力のあるとされる方が、一瞬にして私たちの境遇を引き上げたとしても、私たちの心が変わらなければ、またすぐに同じ世界に戻ってしまうことでしょう。
それに引き換え、心の中に感謝の気持ちを持つことができれば
私たちの境遇は一瞬にして変わってしまうことでしょう。
空海が仰るように生きながら天国に住むものとなります。
さて今日は、お陰様に付いてご紹介します。
謙虚で優しい気持ちです。
前ノートルダム清心学園理事長、渡辺和子さんの言葉です。
<引用開始>
小さなお子さんの手を引いて、
一人のお母さまが水道工事の現場の傍(そば)を通りかかりました。
暑い夏の昼下がりのことでした。
お母さまは坊やに向かって、
「おじさんたちが、汗を流して働いてくださるから、坊やは、おいしいお水が飲めるのよ。
ありがとうと言いましょうね」
と話してやりました。
やがてもう一人、同じように幼い子の手を引いて、別の母親が通りかかりました。
「坊や、坊やもいまから一生懸命にお勉強しないと、こういうお仕事をするようになりますよ」
と言ったというのです。
同じ仕事に対して、こうも違った考えがもてるものでしょうか。
最初の母親は、この日、子どもの心に、労働に対しての、尊敬と感謝の気持ちを育てました。
二番目の母親は、(手をよごす仕事、汗まみれの労働)に対しての、
恐ろしいまでに誤った差別観念を、我が子に植えつけたことになります。
私たちがいま、子どもと一緒にこの場にいたとしたら、どんな会話を交わすことでしょうか。
会話以上に大切なのは、どんな思いを抱いて、働いている人たちの傍を通るかということなのです。
人は、自分がもっていないものを、相手に与えることは出来ません。
感謝の気持ちを子どもたちの心の中に育てたいならば、まず親がふだんから
「ありがとう」という言葉を生活の中で発していることが大切なのです。
近頃の学生たちで気になることの一つは、
いわゆる〈枕詞(まくらことば)〉のようなものを習ってきていないということです。
例えば、「お元気ですか」と尋ねると、「はい、元気です」という答えは返ってきても、
「おかげさまで元気です」という返事のできる学生が、以前と比べて少なくなりました。
遅刻して教室に入ってきた学生が、
授業の後で、「遅刻しました」と、名前を届けにはきても、
「すみません、遅刻しました」という枕詞がつかないのです。
「お話し中、すませんが」とか、
「夜分(やぶん)、失礼します」という挨拶のできる学生も少なくなりました。
いずれにしても、言葉が貧しくなっています。
そして、それは取りも直さず、心が貧しくなっている証拠なのです。
せめて、「おかげさまで」という言葉と心を、生活の中に復活させましょう。
理屈っぽい人は、「何のおかげですか」と言うかも知れません。
何のおかげでも良いのです。
この表現は、私たちが実は、一人では生きられないこと、
たくさんの〈おかげ〉を受けて生きていることを忘れない心の表れなのです。
見えないものへの感謝なのです。
ところで、本当にありがたいこと、
何でもない時に「おかげさまで」と言うのは比較的に易しいのですが、
不幸や災難に遭った時はどうしましょう。
そんな時にも、「おかげさまで」と言える自分でありたいと思っています。
ごまかすのではなく、不幸、災難、苦しみをしっかりと受け止めながら、
「いつか、きっとこの苦しみの〈おかげさまで〉と言える自分になりたい、
ならせてください」と祈る気持ちをもっていたいのです。
<引用終了>
子どもは親や教師の「いう通り」にはならないが、「する通り」になる。
そう渡辺さんは仰います。
このたとえ話では、 親の価値観が、子どもの価値観を作る・・
ということが良く描かれています。
私たちの日々の何気ない一言、行動を子どもたちは本当によく見ています。
そして、ものすごい早さで吸収していきます。
親だからといって、100%完璧な人間になることは不可能ですが、
「お手本」になるために、少しだけ意識してみることはできるかもしれませんね。