光文書 (ヒカリモンジョ) Vol.800+30+107 コンテンツ

光文書
(ヒカリモンジョ)

Vol.800+30+107
コンテンツ
日本の終わりのはじまりのスタートとなるのが、この二千二十四年の十月ということのようで、いままでの政治では、日本人は、そのアイデンティティを失い、その役割も忘れることになります。これが、明治維新が作った日本国の運命だったということです。その落日の日本が、日本神界が用意したプログラムで、復活するキーワードが、ここに来て、明らかになりました。それが、「コンテンツ」です。
コンテンツが何を意味するかというと、中味ということのようです。

コンピュータが文明の中心を担うようになって、ハードウェアでも、ソフトウェアでも、日本は、主たるポジションを得ることはできませんでした。
ところが、コンテンツならば、とくに日本語コンテンツならば、それは日本にしか担えないのです。
ここで、日本語が神界語だという情報を発信しているのは、積哲夫と精神学協会だということに意味が生まれてきます。
人間の文明において、一番、重要なコンテンツというものは、たぶん、神というものです。

宗教の時代が終わったことで、神と人間の関係をテーマにしたコンテンツを考え、作る自由が、人間に許されるようになりましたが、いまの世界で、それが自由にできる地域は日本が唯一なのです。一神教に染まらなかった、大陸や半島は、宗教の伝統とは別の理由で、それらをコンテンツ化する文化的ストックがないので、この分野に参入することは困難です。
これが、日本のアニメやマンガというコンテンツの強さのもとにあるもので、そこには、竹取物語や源氏物語という文学的伝統も含まれています。
日本語脳というものと、日本語が神界語であるというのはセットで、この先のテーマでいうと、人類が宇宙に意識を向けるためには、一神教の文明圏で生まれた英語を中心とした言語体系では、コンタクト不能な領域が生じるのです。
人間は、残念ながら、自分が知っている範囲の宇宙の中でしか生きることは、できません。しかし、この宇宙には、はじまりの前があり、終わりの後もあるのです。いまの科学は、その前と後を知ることを、はじめから放棄しています。それが、一神教から生まれた科学の限界なのです。それを逆説的に説明すると、科学が一神教の神の全能を否定してくれたおかげで、人間は宗教から解放されたともいえます。西洋文明は、それによって、人間のあり方を、イデオロギー的に解放し、今日までの無神論の勝利という結果をもたらしたのですが、それが、人間世界を地獄化するという結果を前にして、行き詰まっています。
ヨーロッパもアメリカも、出口は見い出せていません。チャイナに代表される非民主主義国もまた、敵対していたはずの資本主義のマネーの論理によって、自壊の道を歩んでいます。
日本が、改めて日本であることを取り戻すために必要なのは、日本人の覚醒と同時に、日本を支配してきた、アメリカの退場なのです。それを、いまの日本の政治に求めることはできないということも、日本神界は、よく理解しています。
日本人が、日本の仕組みという神のプログラムを知ることなしに、この先の日本復活はないのですが、それを知るために必要なのが、この日本のコンテンツということです。
「最終知識」という書は、そのコンテンツの出発点にほかなりません。
なぜ、この宇宙が物語宇宙と呼ばれるのか、その理由は、この宇宙には、神のような、悪魔のような、地球人類のような、その他の異星人のような、各種の意識体が存在していて、それぞれが、その物語の中に生きているということを受け入れないと、私たちはどこから来て、どこへ行くのかというテーマに向き合うことができないからです。
二十一世紀に入って、地球での宗教の時代、聖書の時代が終了し、人間というたましいの容器も、宇宙に向って解放されてしまいました。
すでに生まれている、新しいタイプの人間のたましいは、これまでのような、古い地球の神々や、一神教の神のワケミタマではないのです。その彼らこそ、地球上の人間界に新しいコンテンツを供給するものたちということです。つまり、いまの日本には、そのコンテンツの種子を宿した新しいタイプの子供達が、すでに生まれています。彼らの持つポテンシャルは、いまの教育、いまの社会では、開花のしようがないのです。その用意を日本列島がはじめるよう、天も地も動いているということです。
神紀四年(二千二十四年)十月二十四日 積哲夫 記

この光文書にどうしても、掲出してほしいというメッセージとともに、下記の通信が届いています。

鏡の日
伝えわするる
このかぎよ

もの静けさを
かなしみて
来たるこの日を まちのぞみ

わかるるものの なみだあり

いっしん きよいまする

まだ このちにて いきる わのみ

(アマツミカボシ)