3644「泥を肥やしに咲く花」2024.12.17 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2024年12月01日の記事を紹介します。

「泥を肥やしに咲く花」

今日は西尾市にある浄名寺の副住職 松原紗蓮さんのお話をご紹介します。

親と子は時に離れ離れに暮らさなければならないことがあります。

まして自分が捨てられたと感じた時に、

子供はどんな気持ちになることでしょうか?

<引用開始> 引用元

私が愛知県西尾市にある浄名寺に預けられたのは、2歳7か月の時です。

幼い頃に両親は亡くなったと聞かされ、

親代わりの庵主様や、世間様の「お寺の子はいい子だ」という期待の中で育ちました。

同級生からはその逆に、お寺の子であることや、

実の親のないことをからかわれ、酷い苛めを受けてきましたが

「どんな時も前向きでいよ」という庵主様の教えを守り、

泣き出したくなる気持ちを必死に堪えながら幼少期を過ごしました。

張り詰めていた神経の糸が切れたのは、中学2年の時です。

役所に、ある書類を提出する際、

庵主様から「実はねぇ」と言って、出生の秘密を打ち明けられたのでした。

聞けば、両親は私が幼い頃に離婚し、母親が再婚する際、娘の私をお寺へ預けたというのです。

自分は生まれてきてはいけない存在だったんだ。

一体何を信じて生きてきたのだろう?

事実を知った私は、頑張るということに疲れてしまいました。

そして3か月間泣き通した後、私が選んだ道は、

・髪の毛を金色に染めて、

・耳にピアスの穴を開け、

・あらゆるものに歯向かい、

・強がって見せることでした。

暴走族の仲間たちと一晩中走り回り、家出を繰り返す毎日。

14歳で手を出した薬物はその後7年間、1日としてやむことがなく、

私など消えてしまえ、という思いから、幾度となく自傷行為を繰り返しました。

心配をした庵主様は、私が20歳になった時に「最後の賭け」に出たといいます。

私を京都の知恩院へ21日間の修行に行かせ、

そこで尼僧になる決意をさせようとしたのです。

金髪のまま無理やり寺へ押し込められた私は

訳が分からず、初めのうちは反発ばかりして叱られてばかりでした。

ところが10日目を過ぎた頃、教科書に書かれてある仏様の教えが、

読めば読むほど、庵主様の生き様そのものと重なることに気づいたのです。

例えば「忍辱(にんにく)」という禅語があります。

私がグレていた7年間、普通の親であれば間違いなく音(ね)を上げてしまうような状況で、

庵主様はただひたすら耐え忍んでくれたのだ。

それは親心を越えた、仏様の心というものでした。

また道場長から「少欲知足」という言葉を教わり、

「髪の毛や耳のピアスなど、自分を着飾る物すべてを取り払っても、

内から輝けるようになりなさい」と言われました。

人間は無駄な物の一切を削ぎ落とした時に、初めて自分にとっての大事なものが見え、

本当の生き方ができるようになるのだというのです。

私はふと、庵主様の生活を思い浮かべました。

庵主様はお洒落もしなければ、食べる物にお金を掛けたりもしない

簡素な暮らしで、他の楽しみに時間を使うこともなかった。

ではその分、一体何に時間を使っていたか。

そう考えた時に、

庵主様はすべての時間を

「私を育てる」という一事に使ったのだと知ったのです。

私の思いの至らなかった陰の部分では、

どれだけ多くの人が自分を支え続けてくれたことか、御仏の光に照らされ、

初めて親のお陰、世間様のお陰に手を合わせずにはいられなくなりました。

そして教科書を読み進めれば進めるほど、止めどもなく涙が溢れてきました。

修行の後、お寺に戻った私が庵主様に、なぜ私を叱ったり、

本当の気持ちを聞かせてくれなかったのかと尋ねたところ、庵主様は

「人間は、時が熟さなければ分からないことがある。

ひと月前のおまえに私がどれだけよい言葉を聞かせても、かえって反発を生むだけだった。

いまおまえが分かるということは、

おまえに分かる時がきたということだ。仏道は待ちて熟さん」

とお話しになりました。

庵主様には1つの願心があり、私がグレ始めた14歳の時に、10年間は黙ってこの子を見守ろうと決めたのだといいます。

そして自らには、何があっても「平素のように生きよ」と誓いを立てたということでした。

私はいわば、お釈迦様の手の平の上で暴れていた孫悟空のようなもので、

自ら命を絶とうと人生に背を向けていましたが、

どこまでいっても結局は庵主様の手の平の上にいた。

庵主様が私を慈しんでくださる心は無限に広大で、

私はその大きな大きな慈悲の中に生かされていたのだと知ったのです。

23歳で剃髪出家をした時、私は庵主様に「紗蓮」という法名をいただきました。

後にある方から

「美しい蓮(はす)の花は、泥まみれの池の中にしか咲かないのだよ。

人生にも、悩みや苦しみはあって当たり前で、

その泥を肥やしにしてこそ大輪の花が咲くのだ」

と教わりました。

振り返れば、14歳から20歳までのどん底の時代が、

私にとってはまたとない、よい肥やしになったと感じています。

今年31歳になった私ですが、現在はお寺でのお勤めの他、

市の教育委員会からの要請で、悩みを抱える子供たちの自立支援相談や講演活動を行ったりしています。

非行に走る子供たちはそれぞれに、人に言われぬ苦悩を抱えています。

けれども、だからこそ大きな可能性を秘めている。

人一倍光るようになるよ、この子たちは――。

私はいつもそんな気持ちで子供たちのことを見守っています。 

<引用終了>

紗蓮さんを変えたきっかけの言葉は、「少欲知足」だったそうです。

少欲にして足るを知る。

なかなか実践することは難しいことですね。

私たちは、この物質文明、お金至上主義の真っ只中に生きており、

お金が全て、そして便利さの恩恵にあずかっています。

お金や、その便利さ・快適さを得ることが人生の目的になり、

それが本来の人間らしい生き方を見失わせる原因になっているのかもしれません。

紗蓮さんは、育ての親の無償の愛に気付いた時、立ち直れました。

振り返って私達はどうでしょうか?

自分の都合のよい時だけ、子供に愛情を与え、子供が自分の意に添わなければ、

「フン」と言って子供をないがしろにしてはいないでしょうか?

この庵主様のように

何があっても「平素のように生きよ」と、他人(や子供)の態度に一喜一憂せずに、

平素のように「慈悲」の愛を注ぎ続けたいものですね。

そうすれば、この庵主様と紗蓮さんの関係のように、

周りに愛の灯を広げて行くことが出来るかもしれません。