光文書
(ヒカリモンジョ)
Vol.800+30+134
モーゼと守屋山
この二千二十五年の四月二十日に、復活したモーゼが諏訪の守屋山に立ち、それに合わせて、タケミナカタより古い神々が、諏訪大社の春の宮に集い、日本復活のために号令が発せられました。また、二十一日にはローマ法皇もこの世を去られました。そこにあるプログラムが見えるので、今回はその報告です。
ユダヤと守屋山、諏訪大社との関係は、すでに、この光文書のVol.四百十四、Vol.七百七十九で解説しているので、諏訪とイスラエルの関係の話は、それを読んでいただくとして、ことしもユダヤ教の過越祭(すぎこしのまつり)に合わせて、諏訪大社の御頭祭(おんとうさい)が行なわれました。
四月二十日は、その祭りが終わった最初の日曜日だったということです。
これが、何を意味するかというと、日本列島の伝承の中には、モーゼも日本に来ていた、という情報があることの重要性が、アメリカの現状とリンクしている、つまり、この最後の審判の時代の用意のひとつであったということです。
出雲大社は、記紀の国譲り神話の情報を持ちます。それに対して、諏訪大社は、オオクニヌシの子であるタケミナカタが、もともと諏訪の地を勢力圏としていたモリヤの民が奉じていたミシャクジ神を征服する形の国譲り神話を持つ場なのです。
つまり、オオクニヌシの日本の前の日本列島の神々の物語が、そこに保存されていたというストーリーになります。
これは、皇紀が紀元前六百六十年とすると、そのはるか前の話ということになります。これを、最後の一厘の仕組みとして、日本列島に置いた神格が、アマツツキだとすると、その仕組みは、二千六百年以上前というものでなく、三千五百年前に遡ることになります。つまり、出エジプトの記憶も含まれるということです。
モーゼはエジプトを出るに際して、豊かだったエジプトの金銀をユダヤの民に盗ませるように、その神に命じられています。その神は富を求めたのです。ここにも、聖書の神の闇のテーマが見えています。聖書の神の暗黒面は、マネーの神であるといってもいいのです。
ユダヤ・キリスト教の文明圏において、神に対抗する悪魔という存在を崇める、人間グループが奉じているのはマネーの力でした。
それは、マネーをコントロールするものの本体が、聖書の神と同じもの、つまり、神の光と闇の関係であることを知っていたために、表面上は、教会の権威を認めたとしても、自分たちに裁きはないと知っていたためともいえるのです。
ところが、その聖書の神は、人間の内で、光と闇を分離することをマスターし、闇の王たる存在と刺し違える形で、この物語宇宙を退場したのです。これによって、マネーの力をコントロールするノウハウを持つものたちに、この世の支配層が移ることになりました。
いまの世界は、このマネーの力をコントロールすることで支配力を高めてきたものたちが、自らが生み出したマネーの圧力によって、自壊していくプロセスにあるのです。
モーゼもまた、罪なきものではないので、マネーを神のごとく崇めるものたちの行くべきところとされた、地獄の番人を長い間してきたのです。しかし、最後の審判の現実化によって、その役割から解放され、この日本列島での神の働きに改めて、参入することになったということです。
精神界では、エルサレムという場を、聖なるものとすることの危険性をはるか前から知っており、現在のイスラエル建国のタイミングで、そのエネルギーは、日本列島に移されています。それらのこともあり、二千二十五年の日本列島では、光と闇の最後の戦いが、進行中だということを忘れないでください。
神紀五年(二千二十五年)五月一日 積哲夫 記