死とはすべての幻想を派生させる中心的な夢である

近くに毎日いた家族が亡くなり、
一人また一人と減っていく家族を送った
この7年間でした。

そして今、親しき友人や、縁ある会社のお人は
病になり、いやでも死と向き合う状態にあります。

遠くにあった肉親の兄弟をもこの7年間で
次々に見送りました。

いやでも「死」とは何かに向き合うことになりました。

この世の年齢でお若いと言われる方には
遠いお話かもしれませんが。

確実に言えることは、自分が肉体を横たえて
この世界からいなくなっても、何も変わらず世界は
あるということ。

そして亡くなった人たちの存在は、思い出せば
自分の心にあるということ。

だから最大の供養とは「思い出すこと」というのでしょうか。

もし肉体が「実相」(真のすがた)ならば原因である「生命」は
存在しないことになります。

だったら肉体をもって生かされるわけとは何なのでしょう。

よく「神の計画」とか聞きますが、そのようなものが
本当にあるのでしょうか。
計画って果相世界のことのように思っちゃいます。

もし人が(あなたが)この世を創造したのなら、
肉をもってこの世界にいるわけがわかります。
肉をもっているからこそできることをするためと
はっきりと言えます。

「無限」を支える人の意識。
その意識を無限にすること。
この世界のことがらに固執せず、創造者として
堂々としたいことを埋めていくこと。

そんな行き方を、肉をもってしようではないですか。
思うとおりに、生きようじゃないですか。

いつでもちっとも遅いことはないです。

アインシュタインは言いました。

「過去と現在と未来はすべて同時に起こっている。」

ですが実はすべてのことはまったく起こっていないですが。。

ひとりごとです。