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奇妙な話である。進行中の軍事作戦は奥の院・ディープステート(DS)との戦争であり、その重要人物を逮捕・拘束する作戦がメインとなっている。同時に、彼らが世界支配の手段としている通貨発行権とその流通である金融システム支配を破壊することを軍事作戦目的としている。FRBやBIS、IMFなどの国際金融機関の根本を解体するのである。いずれの作戦も、目に見えないので一般には何が起きているのかは分からない。
そして、今回の軍事作戦の中には、もう一つの見えざる内容がある。それは子供たちの救出である。これら子供たちは、地下深くの施設に監禁され、あるいはエプスタイン島のような絶海の孤島に連れて行かれ、決して逃げ出せない場所に収容されている。誰が何のために子供を必要としているのか、我々一般人には分からない。
子供たちは監禁され、DSの偉い方々の慰み者として捧げられる。偉い人たちがこれら施設に招待される。ここで彼らが何をするのか、我々一般人には見当も付かない。しかし、招待された彼ら彼女らは、一つの重要な秘密を招待した連中(DS)と共有することになる。その秘密の共有が一番重要な要素である。招待された者たちは招待した側には逆らえなくなる。この連中はいわば一つの秘密結社を構成していることになる。
今回のアメリカ大統領選挙で、最後の決断をすべきペンス副大統領や最後の司法判断をしなければならないアメリカ連邦最高裁判所のロバーツ長官も、これで口封じされたようである。DSには逆らえないのである。DSから提供された地位と名誉、金に逆らえない。
今回の軍事作戦には、この子供たちの救出が入っていた。そして、その作戦目標は成果を上げ、至るところから子供たちが救出されている。そして、このための作戦では、多くの兵士が犠牲になっている。ある作戦現場では、2000人の兵士が投入され、そのうちの半分1000人が、DS防禦側との戦闘で犠牲になっている。極秘作戦であるから、犠牲者を発表できない。従って、ホワイトハウスの国旗を半旗にして、犠牲となった兵士を密かに追悼している。トランプのいるフロリダ州マーアラーゴでも半旗の国旗が掲揚される。今も、トランプ前大統領がこの作戦の最高指揮者だからであろうか。
こうした子供たちのことはこれまで話題になったことはない。現在も話題になってはいない。しかし、今回はこの子供たちを全て救出し、解放することにしたのであろう。純粋に人道的観点からの軍事行動である。しかも、この子供を犠牲にしている人攫いたちと、それを提供される者たちは、全て社会的地位を持った偉い方々であるために、これまで誰も触れなかったのである。
これらの子供たちはDSの犠牲者たちであり、これまで救出されることはなかった。これらの子供たちは偉い方々の性的慰み者にされ、虐待された挙げ句は、血を抜かれて殺害され、あるいは臓器を摘出され死去している。救出現場にはそのような死体と、拘束されてまだ生きている子供たちが沢山いたのである。作戦に参加した兵士たちは、目を覆うような惨状であったという。
更に、この問題にはユダヤ人の生血祭儀が絡んでいる。彼らは、生血祭儀に子供の血を必要とする。太古の昔から、彼らはこの血を調達するために、何時の時代も子供を誘拐してきた。これがユダヤ問題の本質なのである。これが何時までも続くので、何時の時代も問題となり、ついにはその社会から追放されてきた。そして、今もこれをしているのであって、序でにこの子供たちが大人の慰みに使用されているに過ぎない。いわば彼らの生血祭儀の隠れ蓑にしている。
ユダヤ人の生血祭儀については昨年2020年8月の通信でいくつか書いたので、参照して頂ければと思う。生血祭儀の権威として高名なカトリック学者ジェームズ・E・バルジャーは書いている。「ユダヤ人が生血を飲む儀式を信奉する理由は、ユダヤ人が寄生民族であって、生存を続けようとするなら、非ユダヤ人宿主の生き血のお相伴に与らざるを得ないからだ」と。要するに、ユダヤ教徒にとってはこれは極めて重要な儀式であって、結果がどうであれ、宗教的理由で止められないのである。
バルジャーはまた、「生血を飲むのは黒魔術の儀式であり、この儀式を行うことによって、ユダヤ人のラビ(僧であり指導者)たちは、非ユダヤ人犠牲者の血液が自らの血管を巡るとき、未来を予言できるようになるのだ」とも言っている。ユダヤ人の指導者たちは時に応じて、非ユダヤ人の子供、それもなるべく男の子で年齢が、六歳から八歳までの子供を誘拐する。
ユダヤ人の生血祭儀細則によれば、彼らが必要とする非ユダヤ人の子供は、肉体的に完全で、頭がよく、肌に傷のない者でなければならない。また、その子供は思春期年齢よりも年少でなければならない。なぜなら、思春期が始まると血が汚れる」とユダヤ人は信じているからである。