神の使者から奇跡の道へ その132~赦し

赦しは癒しの同盟者。
両者が揃うことが必要とされています。

それは他者の中においてのみ、自分自身を赦すことが
できるからですね。
邪悪なのは常に他人であるように見え、その他人の罪の中で、
傷ついている者はあなた。
そうならばあなたはすべての者の奴隷ということですね。
何故なら、相手が行うことが、あなたの運命や感情を決め、
絶望か希望か、惨めさか、喜びかを決めることになるからでしょうか。

他者を赦そうとする者が、自分のほうが善良だと
主張することはしませんね。
他人の悪意に対して、寛容であり、沈黙と優しい
微笑みだけをもって応じるというのは親切なことですね。

神はただ与えるのみ。

神の使者から奇跡の道へ その131~聖霊

ひとたびこの旅が始まればその終わりは確実だと
言われています。

助けを必要としている者はみな、自分自身を
攻撃しています。

他者のために祈る必要がなぜあるのでしょうか。
それはあなたが自分の罪悪感(分離感)の投影を
兄弟から取り去るため、および、自分を傷つけているのは
彼ではないということを認識できるようになるための
手段にすぎませんね。

ものごとや地位や人間の愛や、その他あらゆる種類の
外的な「贈り物」を求める祈りは、常に、牢番を
仕立て上げて罪悪感(分離感)から隠れるために
作り出されているようですね。

あなたとわたしは連れ立って進みます。
私はあなたがいなければ進むことができません。
あなたはわたしの一部だからです。

祈りは、真の謙遜への道。
謙遜は平安を運んできます。

神の使者から奇跡の道へ その133~癒し

神は扉の傍らに立っており、赦しはその扉を開く
唯一の鍵でしょうか。

癒しとは、赦しの強さのしるし、またはその象徴ですね。

病気とは、赦そうとしない想念の証でしょうか。
肉体を癒すということは不可能ですね。

そして肉体を生じさせた原因は、神の子が抱いた
赦そうとしない思いそのもの。
天国には赦すものなどありませんね。

死は報奨であって、決して処罰ではないようです。

赦しのみが、あなたが与え、また受け取れる
唯一の贈り物。
偽りの癒しは肉体の治癒の上に成り立っていますが、
それは依然として病の原因を変えずにおくので、
病の再発は可能となります。

神の使者から奇跡の道へ その134~奇跡の道の最終扉

ここまで自己学習である「奇跡講座」の中の
数々の言葉や、体験の中から感じられた言葉を
交えて、「奇跡の道」について書かせていただきました。

あまりに単純なことなのに、このように134項もに
わたって記述が続いたことに驚きです。

人生での数々の御縁が、自らが生まれ出たわけを
伝えているようです。
どんなささいな出会いでも、出会ったことは意味があって、
その時に感じた多くの「分離感」をすべてなくすように、
「赦し」
の機会を出会いによって与えられるようです。

「赦し」がとても困難と思えることがらや、
お人との御縁であっても、そのことやお人への
「赦し」が困難であればあるほど、またそれが
大きければ大きいほど、赦し赦された時に、
「奇跡の道」はめざましく広がりを見せていきます。

「やってみること」しかご進言できる言葉はありません。

しかもその「赦し」には大きさの違いはありません。
どんなことも、小さなことも、大きなことも
一つ残らずするしか道は開けません。

難しさの差は関係ないようです。
一つ残らずですから。

ほんとうに、最後に、

「宇宙があなたの解放を待っています。
それは宇宙全体の解放だからです。

宇宙とあなた自身に対して、親切でありますように」

ありがとうございます

Iさん懐古  その1~相手の意識圧を上げることこそ仕事

この9月から言葉を残して意識の延長を!
という内側からの言葉に突き動かされて
毎日毎日湧き上がるままに書き留めさせていただく
作業が続いています。

全部が自分で、自分は実は宇宙だとしたら、
どこからの言葉も意識もそれは
宇宙から、全体からとなります。
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Iさん懐古 その2~子供は女性が産まない

先日そのことをある女性に告げましたら「?」で
ポカンとしてました。

そうです子供を宿し、大変な思いでこの世に
生み出したのは「私!!」と叫ばれそうですね。

でももしそうだとしたらこの「宇宙」は永続しないのでしょう。

変化する物質が物質によって生み出されたのなら
変化しない「空」が物質の原因ではなくなり
変化するものの「物質」がすべてとなりますので、
「原因」がなくなり「宇宙」は永続しません。

聖書ではイブは「誕生」の苦しみを
アダムは「労働」の苦しみを与えられました。
楽園からの追放です。

「楽園」ではあなたと私がない世界でした。
あなたと私が分離したことから、この幻想の
世界が始まりました。

古事記では天之御中主神(あめのみなかぬし)の出現が
最初でもちろん分離のない一人神。
その後高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神産巣日神(かみむすびのかみ)が現れ
宇宙を創成していきます。
造化三神と呼ばれます。
分離しそこから幻想の世界へ同じように入っていきます。

古事記と聖書はよく似ています。

もし子供が聖書での「父の子」でなく、女性が生んだ母の子で
あったのなら、幻想を実相(真実)ととらえたことになり
相変わらず自我の虜になったままです。

生命は無限にして永遠であり、形がなく一つなので
その原因こそが子供なのでしょう。
すなわち形がない生命が私たちの本質です。

その本質を母が産むことはないようです。

一つの生命を生かされる私たち。

それを身に染みて感じる「啓示」は、幻想のこの世には
存在しない純粋な喜びの体験でしょうか。

生命である霊は「所有すること」と「在ること」の
相違を知りません。
生命にとっては得るということは無意味であり、
与えることがすべて。

「子供は女性が産まない」

Iさん懐古 その3~魂といのちは異なる

そのあとでこのような解説でした。

全我ー生命体ー完全なフリーエネルギー

個我ー魂

霊魂魄(れいこんぱく)とよく言われます。
三つ。

霊はエネルギー。生命体。
魂は心みたいなもの。
魄は肉体。

魂魄といったらもう個我の世界観です。
幻想世界です。

全我ー生命体ーフリーエネルギーが霊の世界で
実相世界です。

だから個我は自我の世界です。
これを手放せず、自我がすべてと信じることが
ほとんどです。
実相の世界観などあるはずがないと
自我が思わせるできごとのオンパレードが
幻想世界ですから。

もちろん時間は自我の概念でしょうか。
そして自我はほんとうは死ぬことはなく
一度も生きれなかっただけでしょうか。
自我の大好きな恐れ、それは未来という時間にあります。

「赦し」は自我と実相の中に立って自我が
なかったことにします。
「赦し」の連続が「自我」のもっとも恐れるものとなります。

魂といのちは異なる。

「あなたがもし兄弟の誰かを見捨てるなら
あなた自身と神を見捨てることになる」