随想 伊路波村から116〜支援者とは

岐阜のMさんから一通の手紙が届いた。

Mさんがこの4/19岐阜の羽島駅ではがき道の坂田さん
ご夫妻とお逢いになった折、みあげにいただいた書付が
入っていた。「リーダーについての覚え書き」(未完)とあった、
坂田さんが奈良のはがき人の集いの朝、書き記したものらしい。
「ほんとのリーダーは人知れず、他の人を支え、援助する人だよ!」
坂田さんの甲高い声が聞こえるかのようだ。

読ましていただくと、できていないことばかり。
「できていないことばかりだね」と家内にいうと、
「全部できたら神様。この世にはいないわよ。」
家内はやっぱり リーダーです。
そしてみんな自分の人生のリーダーで、主人公です。

「リーダーについての覚え書き」(未完)

*最近リーダーという言葉をよく聞きますが、真のリーダーとは、
支援して止まない人のことです。

*支援者とは たえず縁ある人の幸せを考えて願い 自分のことは
あとまわしにする人のことです。

*支援者とは、組織をもたず、権力に近づかない人です。

*支援者とは 良いことをしているとは気づく人がいない人のことです。

*支援者とは 夫婦仲がよく、家族を大事にして、一旦ことあらば
縁ある人様のために全てを 命までも投げ出せる人です。

*支援者とは 集落のすべての人にいいことは譲り、自分は後ろから
とぼとぼとニコニコわらいながらついていきます。

*支援者とは 租衣租食で、一汁一菜が良いと思っている人です。

*支援者とは 愚痴悩み悪口などは 母親の胎内に置き忘れて
きた人です。

*支援者とは すべての物を大切にして使いきり 声をかけて
対話して 喜ばせて使います。

*支援者とは 人生を卒業して四十年、五十年過ぎて いい人
だったのだと気づかれることもあります。

*支援者とは 時として妻に(夫に)逃げられることもありますが、
全財産をわたします。

*支援者とは 水を大切にする人です。

*支援者とは お金を大事にして、喜ばせて使える人です。

*支援者とは 人様が騒いでいようとも ただ一人で自分の信念の
道をたんたんと歩いている人です。

*支援者とは 最下一番下にいて それとなく、すべての人を支えて
いる力持ちです。

*支援者とは 子供からも慕われる人です。

*支援者とは 愚痴などのたぐい一切言わないでたんたんとその道を
歩ける人です。

*支援者とは ほのぼのとした余韻を残す人です。

*支援者とは 人々から忘れられている人です。

*支援者とは どこから見てもにこにこ笑っていて朗らかな普通の
人です。

*支援者とは 偉いところが一つも無くて 子供のように
心がきれいな人です。

*支援者とは たえず本を読み 縁ある人に葉書を書き いつも
人生を工夫している人です。

*支援者とは 掃除の楽しさ深さをつたえている人です。

*支援者とは 自分の根源 親を大事にする人です。

15,4,23 奈良の朝 書き記す。

随想 伊路波村から117〜師と畏友

四日市のUさんからひさしぶりに、ひとり新聞
「むーびーず」が届いた。長く中断していた。

最近四日市へ彼が生涯の師とこころに決めている、はがき道の
坂田さんが彼のために駆けつけてくれた。
そしてひとり新聞の講習会のようなものをされた。
さらに「どうしても行きたいです」といっていた彼は去る10日、おそらく
一人で広島のもう一人の尊敬する川原作太郎さんを訪ねているはず。

そして12日久々の「むーびーず」が届いたのだった。
Uさんは一見ひょうきんな人と目にうつる。

そんな彼だが、幼い日に父親を亡くしている。
父親のなきがらをリヤカーに乗せ、前をお母さんが
後ろを幼い彼が押して病院へ行ったと聴いた。

そんな彼は高校生の頃から貯金をしつづける。
会社で働き、結婚するかしないかで会社を辞める。

好きな映画や音楽の店を開業。事業資金の元手は
高校生から貯めた一千万円をこえる貯金だった。

開業してから16年が経った。
その間に坂田道信さんという生涯の師にであうことになる。
初めて師の姿を見ただけでボロボロと涙がでたと聴く。
生涯で魂の邂逅ともいうべき師に会える人は幸いといえるだろう。
そんなに出会えるものではないから。

そして彼の友達鈴鹿のBさんが結婚した。

結婚披露宴の席上で新郎のBさんはUさんを
マイクで紹介しながら感極まっていた。

「僕が設計事務所で独立したいと言ったら、このUさんは
そしたら一番最初のお客にして と言ってくれました。
その言葉で独立する自信に——」

Uさんは幼い頃からの母と子のふたり暮らし。
人の痛みや不安が分かる人になっていったのだろう。

素晴らしい師と得難い友人に包まれてUさんは幸せです。
彼は約束していた人生を立派に歩いています。

「そんなんちがう  そんなんちがう」Uさんの照れる声が
聞こえてきます。

いつまでも友達でありますように。

随想 伊路波村から118〜決断

もう30年前のお話です。
海外への旅がらみの。

私たちの業界では、仕入先のメーカーさんが
中心となってその鉄鋼製品の販売代理店が
私たちのような問屋を束ねて会を組織します。


T会となづけられたその会はT製鋼さんがメーカーです。
T会では2年おきに海外旅行に行きます。
その年の旅行先はトルコとエジプトでした。

とても行きたかった地名が旅行案内書にありました。
それはルクソール。
だからそのたびへは参加をさせていただきました。
全国から総勢40名ほどの人が集いました。

「飛んでイスタンブール」
最初の訪問地はトルコ。
歴史ある街や史跡を訪ね、夜はベリーダンス(おなかをくねらせる)
を見ました。
そして東郷ビールも知りました。

ボスポラス海峡を遊覧する舟の中では、
ロシアから密輸入されるキャビアの缶詰を販売していたので、
それを全部買い占めて、一部を肴(さかな)にして
日本から持参した日本酒パックの酒を船内で
仲間と飲んだのがなつかしいです。

一緒に飲んだ愛知の他問屋の社長さんは後継者の
方が身内になかったのか、今は社長業を番頭さんに譲っています。

翌日イスタンブールで一泊し市内観光をして、
夕方エジプトのカイロに向かうため空港へ。
そしてチェックインをして搭乗口のところで
みんなが待機します。

カイロ行きだけあって韓国の人たちやヨーロッパや
イスラム諸国の人たちも一緒です。

事件はこのあとおきました。
搭乗の時間がきても案内がないのです。
待つこと3時間。

何かトラブルがあったのか、特にアナウンスは
ありません。
ツアーコンダクターの方が係りの人に
訊いても、わからないというお返事です。

みんながイライラしながらなお1時間ほど待ちました。
やっと搭乗口がザワザワして搭乗開始となりました。
予定時刻を4時間あまり過ぎていました。

それから遅れた説明があって、それは飛行機の左後部の
ドアが閉まらないという理由でした。
ほんとにシマラナイ話です。(笑)

搭乗後も飛行機は少しも出発する気配をみせません。
そして何かそのドアのところで係りの人が必死に
修理をしています。

結局1時間ほど機内にいたのですが、
もう一度搭乗口へ逆戻りで待機となりました。
そしてさらに2時間待つことになるのですが、
それからさまざまな国の国民性を目撃します。

ヨーロッパの人たちは静かに本を読むか
眠っています。
イスラムの人々は神様の言うとおりと達観の姿勢。
韓国の団体は一部の人たちが閉じられた
搭乗口のドアを足でけって、なんだかわめいています。
そして日本人といえば、代表の幾人かを立てて
飛行機会社の代表と直談判する行動を起こします。
それぞれの姿が見えました。

結局7時間待って、飛行機は飛ばず、一応
まる一日待って翌日の同時刻の飛行機に乗る
予定となりました。

飛行機会社の用意した空港近くのホテルに
移動です。

そしてH商事の社長さんと同室にて休むことに
なりました。雑談の中で社長さんは言いました
「あのね、谷底へ水を汲みに行くのなら
どうせなら大きなバケツで行きなさい。」
松下さんの水道哲学です。

眠りに入ったのは午前3時、
そして午前6時、町中に響き渡るコーランの声が目覚ましとなりました。
午前8時ホテルのロビーに全員が集合。
みんなでこの先の旅行の相談です。
T製鋼の社長さんが、少し高くなったイスの上に立ちました。

「みなさん!!、ご存知のとうり昨日は飛行機の不備で
カイロに出発することができませんでした。
そして本日、昨夜と同じ時刻にカイロに向かう予定と
成っていますが、航空会社に問いあわせをしましたところ、
昨日と同じ飛行機を修理して、その飛行機で飛ぶことに
成りました。

そこでみなさんにご相談です。
このままエジプトへその飛行機で飛ぶのか、
エジプト行きは断念して、他のスケジュールを組みなおして
トルコで旅を続けるのかの選択をしなければなりません。

ただエジプトに行っても、翌日の予定であった
今回の旅のハイライトであるルクソール行きはキャンセルとなります。
ご意見のある方はどうぞご発言ください。」

この社長は2代目さん。
若くてすこしファンキーで、芸能好き。
横浜に撮影スタジオを副業で作るような方だ。
そしてそんなにリーダーシップがあるようには
思われなかったのに、大きな声ではっきりと
みなさんに呼びかけたのには拍手を贈りたかった。

さまざまな意見が飛び交った。
「同じ飛行機じゃ怖くてイヤだ。!」
「ルクソールへ行けないんじゃ、エジプトへ
行っても意味ないよ。!」
「トルコをもっと見たい。」
「飛ぼうよ。エジプト行きたい。!」
みなさんの意見をじっと聞いていた社長。
だいたい意見がでなくなるころ、はっきりとした口調でこう言った。

「みなさん!みなさんのご意見はわかりました。
結論を申し上げます。
旅はこのまま続けます。
今夜エジプトへ発ちます。」

毅然とした大きな声が盛大な拍手を呼んだ。
立派な決断力でした。

そして飛行機はエジプトへ旅立ち
カイロに無事降り立ちました。
まさに命がけの飛行。

着陸時には各国の人々が同じように
大きな拍手をして無事を喜び合いました。

われわれが帰国してほんとにしばらくして、
ルクソールでのテロで幾人かが亡くなる事件が報道され、
その中には日本人の新婚夫婦の方も含まれていました。
大きな感慨がありました。

その後、T製鋼の勇敢な社長はS日鉄に会社を譲り渡し、
私たちの直接の取引先のN鉄鋼の社長も先代が起こした
会社から身をひきました。まだおふたりともお若い。

現在T製鋼は他の2つのメーカーと合併した姿にて存続しています。
世の中の事情は変化しました。

でも、あのときのあの決断がその後の
彼の人生を決めたような気さえします。

人は「ソレ」を学ぶのでしょうか。

私の人生ではまだルクソールが呼んでいます。

随想 伊路波村から119〜伝える

文、手紙、ハガキは昔から
ことやものを伝える道具だった。

人間の意志を伝えることがこのような
道具のみで成り立っていた頃は実に
ゆったりとした時間が流れていたことだろう。

印刷ということが可能になって、
ものやことは一度に多くの人々に
知らせることができるようになった。
そして多くの人々の感化が進んで、
同一化のスピードは飛躍的に速くなった。


電話ができ、肉声で感情や意志を伝えることが
できるようになった。
距離はまさに0となった。

そしてラジオやテレビの発達が、
時間や空間の壁をこえさせた。
その一方大衆を管理誘導することも
統治する側にとっては容易になったのだ。

携帯電話が登場し、当時のツーカーセルラーの
代理店001の番号をいただいた時、
携帯の限りない発展を予測した。

それは時間や空間を越えて、まさしく個性に
一直線に行ける魅力が人間を大きな力で
引き寄せることだろうと予想したからであった。

しかしながら携帯の加速度的普及期に
、直感から突然に代理店を辞してしまった。
ただの直感からだった。
なんだか今はホッとしている。(笑)

そして現在はメールが全盛である。
メールは個性の尊重を考慮した
陰の肉声となった。

個性を無視したおしつけメールも多くなったことは
そのようなとても個人にとって嬉しいメールという
機能の影の部分なのだろうか。

ご縁ある人々とのコミュニケーションが
より多くそして早くできることを可能にした
ケイタイの機能。

人間は一人では生きられない。
暖かい心のぬくもりをどんな人でも
求めているのかも知れない。

「一通でも多く便りを書こう。
返事はなるべく出すことにしよう。」

偉人のことばは、メール時代に
どのように人々の心に響くのだろうか。

随想 伊路波村から120〜50回忌、養父母健在の頃

世の中が凄い速度で変化している。
できごともちょうどピッタリのことが
多くて、時に驚かされる。

その昔興味のあったことがらに
まったく興味がなくなったり、
活動がいやになったり。

かといって静かにしていたいわけでもない。
まったく別のこと

養子の自分としては、山田家の親戚とは
他人なのだが、すでに老いた人々でも
お会いした時から気になる人もいる。

それは80歳になる養母の弟さんで、現在78歳と聞いた。
山田善兵衛さんの奥さん、すなわち養父の
お母さんの50回忌が11月も終わりの週にあった。


その日善兵衛さんゆかりの老いた人々が
山田家に集った。

気になる母の弟さんは現在奈良在住。
若くして早期退職を希望され、大手のメーカーの
工場長の役を退き、桑名の本家を去り、
奈良に建売住宅を購入し移り住んだのだった。

温厚にして毅然とした態度に、
いずれとも異なる、なんともいえないやさしさを
みていた。

娘たちはこの母の弟さんや奈良の家が大好き。
庭はすべて自然栽培の野菜でいっぱい。

弟さんは遠方からの法事出席だからと、前日から名古屋入り。
クラウンに宿を取り、温泉に一緒に入り、
父母や家内や子供たちと共に夕食をいただいた。

今は四国巡礼の旅が楽しみ。
もう2回目に入ったとか。
途中昔ばなしに胸をつまらせながらお話された。
「おかげであちこち母親が連れて行ってもろて、
喜んどったで・・・。」
山田家に嫁いだ姉によく旅に連れて行ってもらったことを
母親が喜んでいたというのだ。
お姉さんへの感謝でいっぱいだった。
うれし泣きの年齢になられたのだろうか。

後日、母にたずねた。
「たつやさんて、いつもあーやって泣かれるの。?」
「なに、あんなこと始めてやわ、ビックリしたわ・・・。」
いまだに桑名弁の母なのである。

翌日家で法事。
昼食には近くの料理屋さんに出かける。
おいしいお料理を、思い思いの話をしながら
いただいた後、85歳になる父のあいさつがあった。

「あの・・・、今日はよう来ていただいて、
今日の主役はみんなだな、みんなだ。」

短い挨拶の中に、来ていただいた方への感謝の
気持ちが溢れ出ていた。

あと3年後には善兵衛さんの50回忌を
迎える。
それまで元気にいてください。
おじいちゃん、おばあちゃん。

いつもおじいちゃんにこごとの多いおばあちゃんだが、
「あんた・・・、こないだの挨拶よかったな。」
だって。

ありがとう。

随想 伊路波村から121〜全体の責任は我にあり

もし何もかも捨てることができて、
それを欲するなら、山へ行けばいい。
人がいないところ、人と接しないところ。

でもすこし人間に未練があるなら、
良寛和尚のように、人の声がすこし聞こえる
山中がいい。(笑)

どこかの国が戦争をしかけてきても、
どんなに世の中で自殺者がでても、
あらゆる界で不正が行われようとも、
驚くような事件が起ころうとも知ることもなく、
そしてむろん人の世で感じる感動や、
肉体的な喜びや、悲しみさえも覚えることもなく、
世の中のあらゆることから遠く離れたらどうだろう。

少しいつもより暑いとか、寒いとか、
爆弾が落ちたら、誰かが落としたとか、
まず目の前のことをあれこれ思うのだろうか。

何もなく寿命を終えることができたのなら、
世の中の全部の責任を覚えることもなく、
すべてがなくなっていくのだろうか。
自分さえも・・・。

個という存在が体験し、あれこれ思い迷い、
喜び、悲しみ、嘆き、味わい、打ち震える人生。

人間とは何か、現象とは何かの問いに
答えるものはすくない。
まして実証となるとさらに。

どんなことが起きても忘れないでと叫ぶような、
数々の記憶がある。
それでもそんな記憶でさえ劇的な事象が
かき消そうとする。

人が死のうとするかもしれないのに、
心の揺れていない存在をながめる。
ただぼんやりとシーンを見つめる。

人生をとぼとぼと歩いている人間という動物。
本質を知る時が死の時なのだろうか。

他の方からのあたたかいメールに
感謝でいっぱいになった。

【世界一風変わりなセラピスト】
by Dr. Joe Vitale(ジョー・ヴィターレ)
www.mrfire.com
二年前に、ハワイに住む一人のセラピストの話を聞いた。

その人は触法精神障害者(訳注:刑法罰に問われたものの、精神障害を
理由に不起訴、減刑、あるいは無罪となった人のこと)の病棟に収容され
ていた人たち全員を、誰一人診察することなく癒したそうだ。

その心理学者は患者のカルテを読み、自分がどのようにしてその人の
病気を創りだしたのかを理解するために、自分の内側を見たのだそうだ。

彼が自分自身を改善するにつれて、患者も改善したという。
最初にこの話を聞いたとき、都市伝説だと思った。自分自身を癒すことに
よって他の誰かを癒すなんてことがどうやってできるだろう?

最高の自己改善の達人であったとしても、どうやって触法精神障害者を
癒すことができるだろう?
私には理解できなかった。論理的な話ではなかったので私は受け入れなかった。


しかし、一年後に同じ話をまた聞くことになった。

セラピストはホ・オポノポノと
いうハワイの癒しのプロセスを使ったのだという。初めて聞くものだったが、
忘れることができなかった。

もしその話が本当なら、私はもっと知らなければならなかった。
私は「完全な責任」とは、私の言動に対する責任は私にあるという意味だと
前々から理解していた。

その向こうのことは、自分の管理を離れていると。
ほとんどの人たちは完全な責任というものをそのように考えているのでは
ないかと思う。私たちは自分の行いに対して責任があるのであって、他の人
の行いに対してではない。

精神病の人々を癒したハワイのセラピストは、
私に完全な責任についての進化した新しい観点を教えてくれることになった。
彼の名はイハレアカラ ヒュー レン 博士。私たちは最初の電話でたぶん
一時間は話しただろう。

彼にセラピストとしての仕事の全貌を語ってくれるようお願いした。
彼はハワイ州立病院で4年間働いたことを話してくれた。

触法精神障害者を収容していた病棟は危険なところで、心理学者は月単位で
やめていき、職員はよく病欠の電話をかけてきて、やめていく人もいたそうだ。

人々がその病棟内を歩くときには、患者に攻撃されないように壁に背中を
くっつけて通ったらしい。

それは生活するにも働くにも訪ねるにも心地よい場所ではなかった。

レン博士は一度も患者を診なかったのだそうだ。彼は診療室を持って患者らの
ファイルに目を通すことには合意した。

それらのファイルを見ながら、彼は自分自身に働きかけた。彼が自分自身に
働きかけるにつれて、患者に癒しが起きはじめた。

「2、3月後には、以前は手足を縛られていた患者たちが、自由に歩くことを
許可されていました」と彼は言った。

「多量の投薬が必要だった人たちは、投薬をやめつつありました。そして
退院の見込みのなかった人たちが退院していったのです。」

私は畏敬の念に打たれた。
「それだけではありません」彼は続けた。

「職員が仕事に来ることを楽しみ始めたのです。常習的欠勤や退職は消え去り
ました。患者は退院していくし、職員全員が仕事に来るようになったので、最後
には必要以上の人数の職員が残りました。現在、その病棟は閉鎖されています。

ここで私は問わなければ気がすまなかった。

「それらの人々に変化をもたらすような何を、あなたは自分自身の中で行って
いたのですか?」

「私は彼らを創りだした自分の中の部分(パート)を癒していただけです」と彼は
言いました。

私には分からなかった。
レン博士は説明した。

あなたの人生への完全な責任とは、あなたの人生の中の全てが単にそれが
あなたの人生に存在しているというだけの理由で??あなたの責任なのだと。
文字どおりの意味で、全世界があなたの創造なのだと。

これはなかなか納得できるものではない。

自分の言動が自分の責任だということと、私の人生におけるあらゆる人の
言動の責任が私にあるというのは全く別の話ではないか。

それにもかかわらず、実際のところは、もしあなたが自分の人生の全責任を
負うならば、あなたが見たり、聞いたり、触れたり、その他どんな方法であれ、
あなたが経験する全てがあなたの責任なのだ。

それはあなたの人生の中にあるのだから。
これはつまり、テロリストの活動、大統領、経済??あなたが経験していて好き
ではないことを癒すのは、あなた次第だということである。

言ってみれば、それらは存在してはいないのだ。
あなたの内面からの投影である以外には。

問題は彼らに関するものではなく、あなたに関するものであり、それを変える
には、あなたはあなたを変えなくてはいけないのだ。

このことは把握するのも難しく、ましてやそれを受け入れて実際に生きることは
もっと難しいとわかっている。

非難のほうが、完全な責任よりもはるかに簡単である。

しかし、レン博士と話すにつれて私は気づき始めた。

彼にとっての癒し、そしてホオポノポノにおける癒しとは、あなた自身を愛する
ことなのだと。あなたが自分の人生を改善したければ、あなたは自分の人生を
癒さなければならない。

もしあなたが誰かを癒したければ、たとえそれが精神障害を持った犯罪者で
あってもあなたはそれを、自分自身を癒すことによって行うのだ。

どのようにして自分自身を癒すことに取り組んでいたのかと私はレン博士に
たずねた。

患者のカルテを見ていたときに、彼は具体的には何をしていたのだろう?
「私はただ『ごめんなさい(I’m sorry)』と『愛しています(I love you)』を何度
も何度も
言い続けていただけです」と彼は話した。
それだけ?
それだけ。
あなた自身を愛することが、あなた自身を好転させる最も素晴らしい方法であり

あなた自身を好転させるにつれて、あなたはあなたの世界を好転させるという
ことが判明した。

これがどのように機能するかの簡単な例をあげてみよう。

ある日、誰かが私を不愉快にさせるメールを送ってきた。過去そういう時には、
私は自分に感情的な反応を引き起こすものについてワークしたり、あるいは
意地悪なメッセージを送ってきた人に理を説こうとすることで処理したものだっ
た。

今回私はレン博士のメソッドを試すことにした。
私は「ごめんなさい」と「愛しています」を声に出さずに言い続けた。
特定の誰かに向かって言ったわけではなかった。私はただ愛の精神を呼び起こし

この外側の状況を創り出した自分の中を癒そうとしただけだった。

一時間もしないうちに同じ人からメールが来た。
彼はさっきのメッセージについて謝罪していた。私は謝ってもらうために外側に
何も働きかけをしていないことを覚えておいてほしい。
私は返事すら書いていなかったのだ。にもかかわらず、「愛しています」と言う
ことで、

私はどういうわけか彼を創り出していた自分の内側を癒すことができた。
その後、私はレン博士が開いたホ・オポノポノのワークショップに参加した。

彼は今では70歳で、優しい祖父のようなシャーマンと見なされていて、少々引き
こもりがちである。彼は私の著書『The Attractor Factor』をほめて くれた。

私が自分を向上させるにつれて、私の本の波動が上がり、人々が本を読むときに
皆それを感じるだろうと彼は語った。

要するに、私が向上すると、私の読者も向上するということだ。

すでに売られて外に出ている本についてはどうなんですか?と私はたずねた。

「それらの本は外にあるのではないよ。」彼が持つ神秘の知恵に私はとても驚い
た。
「未だにあなたの中にあるんだ」

つまり、外なんてないということだ。
この高度な技術を、それが値する深さとともに説明しようとしたら、本が一冊書
けるだろう。あえて言うなら、あなたがあなたの人生の中のどんなものでも改善した
いのなら、見るべき場所はただひとつ、あなたの中である、ということだ。

「あなたが見る時は、愛をもって見るように」

http://www.mypress.jp/v1/i/story.php?writer_id=jj00&story_id=90608

随想 伊路波村から122〜巡る

映画「不都合な真実」を見た。

想いだした。
その昔になってしまった高木善之さんの
環境に関する多くのお話を拝聴する機会を
持った日々のこと。


それでも、次第に環境をウンヌンする
傲慢さにウンザリしてしまったじぶんの心を知った。


「不都合な真実」はまったくそのとおりなのだが、
その映画を配給し多くの人々に見せようとする
裏がわの意図に心がいってしまうのは何故なのだろう。

どのようなことも私達の選択の結果。
全人類の選択の結果だからと、善悪をこえた
必然に心を致す。

経済と環境は相反するのか。
人類が増えれば増えるほど、自然の環境は
変化し私達を生き難くする。

しかし人類の増加を止めることはできない。
大きな津波が幾十万の生命を奪った。
これから一挙に、何百何千万という生命が
消えるという必然を体験する、選択の人類の
一人になるのだろうか。

自然はそれ自体が自然生命と聞いた。
「巡る」、「回転する」がもし経済の本流だとしたら、
価値の大小は問題ではないのだろう。

ただ循環が大切なら、その循環の中で
私達が体験し意識することによって
得るエネルギーがどこかを加減するのかも知れない。

介護は何も生み出さないかのようで、
循環には貢献する。
医療も戦争も同じこと。
マイナスにみえても、循環には同じこと。
それだけどこかで建設があり。
健康を謳歌する人々のエネルギーが沸き立つ。

過去類を見ない人類の人口爆発と
CO2の増加。

故糸川博士は言った。
「未来の人類生存のためのヒントはゲーテのファウストにある。」

さて・・・・・・。
猿の惑星。
琵琶湖の沖積層。
奇跡の体験。
無限膨張の光よ。
全一の世界よ。

無、空よ。

 

随想 伊路波村から123〜いのちを継ぐ

急に映画に行きたくなった金曜日の夜、
一緒に行くはずだった奥さんは、
激しい娘と息子のやり取りを聞いていて、疲れたのか、
寝てしまっていた。


一人で出かけた、万博サテライト会場跡地にある
109映画館。
結構人が入っている。
若い人たちや、年配の人たちが混ざっている。
「男たちの大和」


竹内結子さんの旦那さんが主演級。
内田という名前だった。


実は四日市のビデオのUさんが「よかった!」って
メールを打ってみえたので、是非にと思っていた。
uさんの「よかった!」にははずれがないので。


僕は戦後っ子なので、戦争は知らない。
でも鹿児島の特攻基地だった知覧に行って、
ほとんど母を思って死んでいった特攻隊員の
遺書には、胸が詰まった。


「大和」は沖縄を救うべく出撃したのだが、
玉砕を全員が覚悟した戦いだった。


いのちをかけるような経験がないのだから、
もし自分だったらと思ってしまう。


母子、恋人、兄弟の関係が浮かび上がる。
いのちをかけるということ。
何のために死ぬのか。


ギリギリのライフボートのような疑似体験を思う。
やっぱり哀れさに心が揺れる。
いのちをつないだ息子が死んでいく。


その母もまた子を産むときは、誰でもいのちをかけたのだ。
映画の原作になった話の主人公の内田さんは
実は四日市の人だったとか。
ビデオのUさんが言っていた。


戦後生き残り、11人の親のない子を引き取って育てた人。


「戦死した人のために、唯一ワシができることだから。」
娘がお父さんの内田さんの言葉を告げる。


その翌日土曜日。
また映画に行くことになった。
今度は夕食つきの映画行き。


奥さんの希望の映画「単騎、千里を走る」


高倉健さん主演の日中合作映画。


「親より早く死なないことが、
何よりの親孝行」
なのに健さんの息子は親より先に逝ってしまう。


妻の死後、寡黙になって漁村に居ついた
健さんと、東京に住む息子との連絡は10年なかった。
父と息子の心の葛藤が、健さんの演技に溶けていく。


単純なストーリーに寡黙な健さんは無言で演技する。
その無言の姿が凄い。震える。


実はその日の午前に、末の娘の卒論の
発表会に出向いた。招待があったので。
行ってみると参加保護者は私ひとり。(笑)


視聴覚教室で娘の発表を加えて4人の方の
発表を聞いた。
若いのだけれど、えらいなあって感じる。
内容はともあれ、卒論をみんな英語で書くんだから、
それだけで尊敬します。


娘の発表は「父子関係が子どもの自己開示に及ぼす影響」
なかなか興味あった。


父の権威を縦軸に、会話の高低を横軸にしたゾーンでは、
もちろん高会話低権威のゾーンの父親に
子どもは自己開示をするのは、たてた仮説どうり。
それより娘は父親のロマンに尊敬心をもち、
息子は物質的成功にそれをより多くもつという
風説が気になった。


人は自分の逆を求めるものか。(笑)


健さんに戻って、
会話がまったくない父子が、
短い残された命の時間の中で、再会することもなく、
心が溶け合う。


それは時間やお金に関係なく、息子の願いを
かなえてやろうとして何もわからない中国へでかけた
父親の勇気と愛がきっかけとなった。


親よりは早く死なないように、そんなシナリオどうりで
あれば命を継ぐという流れは、自然のうちに果たせるのだろうか。
涙の量は「単騎、千里を走る」が多かった。
嗚咽しそうになった。


その場面はどこでしょう。(笑)
両方の映画、是非って薦めたい。


今朝月曜日、末の娘はカナダーメキシコ一ヶ月の旅に発った。


朝出勤時、「パパ、ハグハグ」って言った。