「これからのスピリチュアリズムのあり方」 法則の伝え

〈これからのスピリチュアリズムのあり方〉
世界にいろいろな宗教があり、それぞれが神の存在を説き、
愛や慈悲を説いています。
その通りに全ての人間が生きたら、地球は凄いことになっている筈です。
では何でそうはならず、宗教が一番残酷な殺し合いをしているのでしょうか。
人生は山登りに例えられます。
みな厳しい山登りをしていますが、その中で一直線で登るか、つづら折りに登るか、
頂上を目指すには多くの道があります。
宗教もスピリチュアリズムもその道案内人です。
道案内人は自信を持っていないといけません。
自信と確信と責任が必要です。
そうでないと厳しい道を案内するなかで、「私は謙虚ですから、この道が
絶対正しいとは言えません。私に付いてくると途中で死ぬかもしれません。」
となったら、そんな人には誰も恐くて付いて行きません。
ですから案内人は、自信と確信を持っていないといけません。
それでこそ案内を受けた人たちは、この道が正しいと信じて付いてきます。
そうなるとそれ以外の道をよそ見していることが出来なくなります。
よそ見をしていると危ないですから。
結果として、他の道を切り捨てるが如くになります。
ここで問われるのが、他の道が全てダメなのではないという、道案内人の寛容心です。
これが物凄く大事になってきます。
これからはスピリチュアリズムが、お互いにいがみ合う時代ではありません。
ところが説いていることは素晴らしいのに、又、真剣に自らの向上に取り組んでいるのに、
他のスピリチュアリズムを裁くことがあります。
純粋で一生懸命にやっているところほど、そうなりやすいです。
どうしてそうなるのかと言いますと、波動の二極化を起こしているのです。
高い心を求めて頑張れば頑張るほど、私たちは二極化しやすいです。
何故ならきつくなればなるほど、低い“快”を得ようとしますから。
例えばイスラム教ですが、非常に厳しい禁欲主義です。
その結果、他を激しく裁く自尊他卑の波動に陥りやすいです。
もちろんイスラム教が全部そうなるわけではありません。
イスラム教そのものは、今の時代に必要な人がいます。
もし本当に不必要なら、残っていないです。
宗教もこれからは変わっていかないといけません。
魂の世界の、言ってみれば新しい信仰の形になっていかないといけません。
新しいスピリチュアリズムに求められるのは、他の道も認められる寛容心と、
法則の知識です。
例えば私たちは、「二極化するものである」という知識です。
同時に大事なのは、他のスピリチュアリズムに対して、「私たちはこのやり方で
やります」と、はっきり主張することは必要です。
道案内人がそれぞれの主張をすることで、それぞれの道が示されるからです。
案内を受ける側は、その中で自分に合った道を選んでいけば良いのです。
シルバーバーチのメッセージに、“地上には橋頭堡が築かれている”というのがあります。
この橋頭堡というのは、橋と橋が架かる両端の、それぞれを受ける部分を言うのですが、
それがすでに築かれているということです。
今は地上にたくさんの橋頭堡が築かれていて、いずれはそれぞれの橋頭堡に
橋が架かるということです。
今のようにそれぞれの橋頭堡がつぶし合いになっていてはいけません。
それでは橋が架かりようもありませんから。

9月の集いのご案内

☆慈藹塾読書会
9月18日(土) 午前7時30分~
場所 サンコム
新たに参加希望されます方は 山田までお申し込みください。
「修身教授録」(森信三先生著)を輪読しますのでご持参ください。
参加費は無料です。
☆冠之会
9月20日(月) 祝日 午後6時30分~
場所 熱田神宮内 龍影閣
参加費 1500円(資料、会場費用)
どなたでも参加可能です。
参加ご希望の方は 松岡さんまでお願いします。

「己れを捉える物差しについて」 法則の伝え

「祈りの詩」の川上さんの「法則の伝え」を
Kさんが 解説してくださってます。
抜粋をこの「法則の伝え」のカテゴリーにて
お伝えさせていただきます。
〈己れを捉える物差しについて〉
私たちは自分を捉える物差しを持っています。
高いものから低いものまであります。
その中で一番低い物差しは、“全てが満たされていて当然”
お金がいっぱいあって当然。
健康でどこも悪くないのが当然。
人間関係も悩みがなくて当然。
つまり全てが満たされていないと満足できないという心です。
この物差しが一番低く、誰でもが持ちやすいです。
では高い方はどうかというと・・・、
“全てが意のままにならなくて当然”
“生きているだけでありがたい、何故ならまだ「行」がさせてもらえる”
“肉体があろうが無かろうが、永遠無限の愛によって、
全てが現されていることが悦び”
つまりどんな環境にあっても、心が揺らがない意識状態です。
私たちは「行」を通して、物差しのレベルを上げていく人生を送っています。
例えば順風満帆の人生を送ってきた人がいるとします。
小さい頃から優等生で育てられ、医者の家系で自分も医者になり、
先生、先生と持ち上げられ、病院の経営も引き継ぎます。
医者の仕事は他の人に任せ、自分はお金儲けだけ。
何の不自由もなく、昼間はゴルフ、夜は高級バーで接待を受け、
好き放題をしていた、という人がいたとします。
その人の病院の経営が少し苦しくなったとします。
すると途端に絶望感に陥ってしまいました。
何故なら、“全てが満たされていて当然”という低い物差ししか
持っていなかったからです。
でも事業なんて少しくらい借金があって当たり前という物差しの人から見たら、
そんなことは苦でも何でもありません。
ましてや“生きているだけでありがたい”人から見ればその程度のことなら、
もうパラダイスです。
私たちは「行」を通して己れの物差しのレベルを上げていきます。
そして「行」の真っ直中にあろうと、心の持ち方でレベルを上げ易い方法があります。
“この世は魂の戦場である”
“私たちは愛と英知の手綱を手にした、魂の戦士”
という意識を持つことです。
では闘う相手は誰かというと、己れの低い心です。
私たちにとっての最大最強の敵は己れの低い心です。
それ以外に恐れるものは何一つありません。

生せっけん

8月になりました。
一年早いですね。
今日は伊路波いちばから新しく販売になりました。
「生せっけん」のご案内です。
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テネモスネットのEさんが この6月8日にフリーモーターを
サンコムまで持参されました。
その日の 下のコーヒーかこさんでの会話です。
「Eさんの髪の毛って真っ黒ですよね。なんでですか。?」 私
「それはね 今日持ってきたせっけんで洗ってるから。」Eさん
Eさんは以前入院中に強いお薬を身体に受けられたので
一時期頭髪がほとんど抜けてしまいました。
それから一年後にもう この真っ黒な髪なんです。
「どうしてそのせっけんで黒くなるんですか。?」私
「新陳代謝がよくなるんです。」Eさん
「ヨゴレがあると雑巾に水をつけて拭くでしょう。
そうするとヨゴレが取れて また雑巾を水ですすぐでしょう。
でも汚れた水で すすいでも雑巾はきれいにならないでしょう。」Eさん
いつものように難解です。(笑)

“生せっけん” の続きを読む

あるハガキから

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うちの父も 海軍の食事係りだったとか。
でも 戦争のことを一切口にしません。
だから 質問もしません。
さまざまな 戦争だったんですね。
加藤さんのおとうさん 晩年もお店に出られて
お客様のお茶を 追い注ぎしてみえました。
ありがとうございました。

力 メール

年齢と共に根気薄くなり
強い意志があっても
少しも進まない現象に飽きそうになる。
すると「飽きることは 成長が止まったからだ」と
息子がコンビニで見つけた「ニーチェの言葉」が届き
進まないことに頼ろうとする意志を
見透かすように 人生の師からは
「志を持っている間は 不思議に個人も会社も
神から支えられます。個人の思いの時は人間のものさし
社会性を持てばほとけのものさしです。」と個人の域を出ることを
確認するかのような強いメッセージが届きます。
すべての現象は自らの意識の反映としつつも
心の響きは今生ではいのちの糧でもあります。
野生のヒヨドリのヒナが自分の手のひらでいのちを
遠ざけて行ったことに臆面もなく人前で泣く感性に響き
人生の師ともいえる父親を身近に見ながら今生を生きる
友人からのメールに涙するのです。
そしてその友人からいただいた 15年ぶりに目にした「青春」が
今後の行く末にどんなに力になるのかを 確認させていただいた
8月5日という日でした。
         サミュエル・ウルマンの詩 「青春」
  青春とは人生の一時期のことではなく心のあり方のことだ。
  若くあるためには、創造力・強い意志・情熱・勇気が必要であり、
  安易(やすき)に就こうとする心を叱咤する冒険への希求がなければならない。
  人間は年齢(とし)を重ねた時老いるのではない。理想をなくした時老いるのである。
  歳月は人間の皮膚に皺を刻むが情熱の消失は心に皺を作る。
  悩みや疑い・不安や恐怖・失望、これらのものこそ若さを消滅させ、
  雲ひとつない空のような心をだいなしにしてしまう元凶である。
  六十歳になろうと十六歳であろうと人間は、驚きへの憧憬・夜空に輝く星座の
  煌きにも似た事象や思想に対する敬愛・何かに挑戦する心・子供のような探究心・
  人生の喜びとそれに対する興味を変わらず胸に抱くことができる。
  人間は信念とともに若くあり、疑念とともに老いる。
  自信とともに若くあり、恐怖とともに老いる。
  希望ある限り人間は若く、失望とともに老いるのである。
  自然や神仏や他者から、美しさや喜び・勇気や力などを感じ取ることができる限り、
  その人は若いのだ。
  感性を失い、心が皮肉に被われ、嘆きや悲しみに閉ざされる時、
人間は真に老いるの である。
  そのような人は神のあわれみを乞うしかない。