神の使者から奇跡の道へ その67~私はなにもする必要がない

「私は何もする必要がない」

アレレ する必要がないと言うことは
必要なものはいつもすべてある ということですね。

そして、まさかのこの言葉を ただの一瞬でいいので
信じ切れば、1世紀にわたる観想以上のものを
あたえられると聞きました。

どうも肉体次元で考えがちな自我人間なので、
「み~んなお任せ」の心境にはなかなかですね。
この「み~んなお任せ」でのうてんきだと
肉体の病気も消えるようですね。
だってないものをあると決めているのは
自我のこころですからね。
“神の使者から奇跡の道へ その67~私はなにもする必要がない” の続きを読む

「トランプ前大統領の弾劾」 奥の院通信 2/15

https://okunoin.fc2.net/blog-entry-477.html

トランプ前大統領の弾劾裁判が無罪となった。当然のことで、そもそもトランプ前大統領の弾劾裁判そのものがおかしいのである。民主党の首脳陣が、自分たちの国家反逆行為を隠すために、攻撃は最大の防禦とばかりに、トランプ前大統領の弾劾裁判を申し立てたのであった。

 
 ここで改めてこの弾劾裁判なるものの内容を振り返ってみる。

 報じられた内容はこうである。

 「『米連邦議会議事堂の襲撃事件』をめぐるトランプ前大統領の弾劾裁判で、陪審員を務める上院議員による評決が13日に行われ、トランプ前大統領は無罪となった。有罪となるためには、定数100の上院で出席議員の3分の2以上の賛同が必要であったが、50人いる共和党議員の多くは「無罪」と判断した。評決の結果、有罪は57人、無罪は43人だった。共和党も7人が有罪と判断した。しかし、有罪に必要な67人以上には達しなかった。
 連邦議会襲撃事件は、大統領選の結果を確定させる上下両院の合同会議が開かれていた1月6日に起きた。選挙で敗北を認めていなかったトランプ氏は、ツイッターなどを使って支持者にワシントンへ集まるよう求め、当日は集会で「死にものぐるいで戦え」と訴え、議事堂に向けて行進するように呼びかけた。その後、多数の支持者が議事堂に侵入し、警察官1人を含む5人が亡くなった。民主党が過半数を占める下院は1月13日、『反乱の扇動』でトランプ氏を弾劾訴追し、共和党からも10人の議員が賛同した。
 2月9日に始まった弾劾裁判の審理でも、弾劾管理人(検察役)の民主党下院議員らは、議事堂内の監視カメラの映像や、連邦捜査局(FBI)の宣誓供述書などをもとに、暴徒たちがトランプ前大統領の言葉を受けて議事堂内に侵入した、などと主張した。トランプ前大統領を有罪とし、将来にわたってアメリカ合衆国で公職に就けないようにすべきだと求めた。
 一方、トランプ前大統領の弁護人は、『弾劾裁判なるものの目的は現職大統領らの罷免』であり、すでに退任して一般私人となっているトランプ氏を裁くのは「違憲」などと主張した。さらに、トランプ前大統領の演説での言葉も政治的発言に過ぎず、「襲撃事件を扇動する意思はなかった」として、無罪を求めた。
 事件後にはトランプ前大統領の責任を問う声が共和党内からも出た。しかし、トランプ前大統領が共和党支持者の間で強い人気を保っていることもあり、多くの共和党議員はトランプ前大統領との対立を避けたい状況にある。弾劾裁判の初日には、共和党議員の44人が、『弾劾裁判は違憲』という弁護側の主張に賛同した。
“「トランプ前大統領の弾劾」 奥の院通信 2/15” の続きを読む

神の使者から奇跡の道へ その68~赦しでさえも終着点ではない。・・・・

「赦しでさえも終着点ではない。赦しは麗しさを
もたらすが、創造しない。それは癒しの源ではあるが、
愛の源ではなく、愛の使者である。」

自分と兄弟を赦しても、また赦しても
それは麗しさを感じるだけであって、
決して創造はできないようですね。
だから癒しの源を感じはしますが、
愛の源を感じることは出来ずにいて、
赦しはただ愛の使者とはなる様です。

でも源に触れるには、赦しと言う使者を
受け入れ、また受け入れてただ赦しを続けること
なのかも。

「愛の源とは光の源であり、そこでは
何も知覚されず、赦されず、変容されることもない。
ただ知られるのみである。」

知覚されずに、ただ知られる。?

なんでしょう。
染み込む感じでしょうか。
それとも自分さえ消えてただそのものと
ある状態でしょうか。
またはそのものである状態。

それは言葉を超えるもの。?

「赦しでさえも終着点ではない。赦しは麗しさを
もたらすが、創造しない。それは癒しの源ではあるが、
愛の源ではなく、愛の使者である。」

「自分の心配」 自分で自分を自分する 2/13

http://tenmei999.blogspot.com/

 

2021年02月08日他人の心配より自分の心配

お不動様に喜んでいただいた雪だるまは、今こんな感じです。

 

 

元はこんなに凛々しかったのですが・・・ますます、参拝者の皆様の笑いを誘っています。

さて今日は 小林正観さんのお話からです。

正観さんは、ブッダの時代と、空海の時代に生まれ、ともに、師のそば近くで修行していたことを思い出していました。また、プレアデスから地球に来たことも思い出していました。

年間300回を超える講演会を通じ沢山の方々を悩み、苦しみの淵から救われてもこられました。 身体がボロボロになるまで、講演会を続け晩年は、もう不思議な力さえ使うことができたようです。

さて今日は「他人の事はいいんです」ということで、正観さんの少し厳しめの、講演会の内容をご紹介します。

<転載開始> 転載元

実践する人である正観さんが、自らを名乗る。「実践者」

その実践者というのはどういうことか。

・どんなことがあっても 怒らない。

・どんなことがあっても 声を荒げない

・イライラしない

ということを実践しようと思っている 実践者なんです。腹を立ててもよい現象(出来事)は世の中にはありませんと。それは戦争についてさえ、そうです。

戦争を憎んで、怒りを覚える という人に「正しい怒りではないのか」と聞かれました。

その答えは「その憤りこそが戦争を起こす」というものです。

戦争は、自分は絶対間違っていないと思ってる。

・正しい怒り。

・正しい憤り。

・正義の戦い

と皆思っているんです。だから戦いになる。だからこそ、どんなことあっても腹を立てない。何があっても戦いを挑まないということが 重要なんです。

この条件だったら、腹を立てないけれど、この条件だったら、腹を立ててもいいと。

そういうことは ないんです。
“「自分の心配」 自分で自分を自分する 2/13” の続きを読む

神の使者から奇跡の道へ その69~学びが終わるのは、愛ではないすべてのものを・・・・

「学びが終わるのは、愛ではないすべてのものを
あなたが認識したときである」

愛ではないすべてのものを認識したとき。?

それではすべては愛であると魂の底から、
そしてそのことさえも感ずることがなくなるとき。?

見るもの、聞くものすべては愛と。

そうですよね、愛って学ぶようなものでなくて
もともと愛ですね。

ただもともとそうであると信じ切れていないので
信じ切れていないできごとがやってきますね。
だからこそ赦しはそういった真実ではないことを
取り除くための行為となりますね。

人の目的はただ創造することだけであるならば、
すべての知覚が洗い清められ、最後には永遠に
取り除かれるまできっと、愛の源を知ることは
できないのでしょう。

楽しみなので、行動します。(笑)

ほんとに楽しみ!!

待ってるよ!自我さん。

「学びが終わるのは、愛ではないすべてのものを
あなたが認識したときである」

ヒナモロコって何もの? 犬のできものに・・

ポムちゃんの右のお顔にできものができました。
ポムちゃんはそこがかゆいのか、手で掻きます。

そうするとそこがますます赤くなって肉が見えてきます。

そこでこんな時はビダクリームと思って、毎日塗りました。
ところがビダクリーム大好きなポムちゃんは
何とかしてそれを長い舌でペロペロします。

何にもならないので、思いついたのがもしかして
ヒナモロコ。
5倍ヒナモロコをスプレーで患部に
吹き付けました。

するとポムちゃんはヒナモロコの時は
全くなめません。
さらにもしかしてがビンゴ!になり
できものはさわられずにどんどん陰性になってきました。

お写真はもう治りかけになったものです。

ご参考になりましたら、同じことでお困りの方に・・・。

ヒナモロコWウォッシュ

神の使者から奇跡の道へ その70~肉体は赦すことはできない

「肉体は赦すことはできない」

そうですね。
肉体は決心できませんね。
あたりまえですが。

すべては人間の最大の能力である
自由な心で決めるんですよね。
そしてだれでもが持っている自由な心。

もし、もしですが、肉体が幻想だとしたら
どうでしょうか。?
肉体が幻だとしたら、何か不自由があるのでしょうか。
何かに怒ったり、恐れたり、悲しんだりなんて
意味ないですよね。

ところが自分が怒っているときにはいつでも
自我の「祝福」を受けた特別な関係を作り出します。
肉体が、それだけがあなただと叫ぶ自我さんの勝利です。

全ての怒りは誰かに罪悪感(分離感)を感じ
させようとする試みのようです。

そしてすべての恐れは自我さんの知覚であって
それ以外の何ものでもないですね。
だから自我に、あんたなんかには従わないと宣言しても、
自我はあなたを殺すことは出来ませんね。

肉体はただあなたの目的に忠実に仕えるだけ。
そう、自我に従わないものを自我はころすことは出来ません。

「死の魅力が、愛の真の魅力に屈するとき、
死に対する恐れは去るだろう」

「肉体は赦すことはできない」