秋の風

今日は会社の近くのご老人お二人がある集いの
勧誘に会社を訪問されました。
もちろん面識のない方ですが、なんとなく昔会社の
経営者ぽい方々です。
それで勧誘の趣旨はGLAへのお誘いです。
今は高橋信次さんの次の高橋佳子さんが柱です。
高橋佳子さんとお聞きして、すぐGLAとお答えしたものですから
「いつからご存知ですか。?」と質問されました。
「20年位前からです。」とお答えしますと、驚かれて
「実はこのご案内御社が始めてなんです。
初めてでとても元気をいただきました。」
といわれました。
GLAの説くことは「人は永遠の生命を生きる魂の存在」です。
そのことを理念に団体として行動し、会員の方々が切磋琢磨して
その理念を守っていくことに努力されているようでした。
「宗主なく、会費なく、選民意識なく、教義なく、恐怖心なく」が
こちらの判断材料ですので、それには該当しません。
これもまた自我ですが。
それにしても今のような時代に必要と判断されているのでしょうか、
お二人のご老人は若者のようにさわやかに去っていかれました。
6年間水替えのない水槽にたくさんいためだかは1尾に、
そして4月19日から育成の海老はついにやはり1尾に
なりました。いつのまにか1尾なのです。
この1尾の姿が見えなくなったらおもしろいです。
ちょっと恐いですが。
水温14度が生死の分岐点です。
その10月が近づいてきました。
一雨ごとに秋の風が近づいてきそうです。

黙想の再開

毎日の生活の中で、自分がいままで犯してきた
さまざまな行為を、その対象者に詫びながら生かされています。
あの時こうすればよかったと、今は反省ばかりが
頭に浮かびます。
なんてできなかったんだろう。
そんな反省ばかりです。
さまざまなことを学んで夢を実現し幸せになっても、
無になって「それ」を知っても、それから結局
どんな風に生きるのかをいつも問いかけることになります。
自分にです。
結局はどんな状況にあってもそのときの「今」に
感謝するしかないのに、人間は変化するものを求めて
夢見る動物です。
まずは不変を知ることが先なのですが。
たいていは、その不変を知らずに肉を脱いでいきます。
何を知って達しようと、マザーのように奇跡を行い「聖人」に
なろうと、いつだって「今」にしか過ぎないのです。
あの神戸の地震の日から途絶えていた黙想を始めることになりました。
アルコールを控えるようにとの機会を与えられましたので。
今一度の「自覚」が今生の意味を教えるのでしょうか。
自分しかいない無限宇宙を漂いながらも、
どこまで行っても「今」ですが。
目前に現れる「今」をただ感謝するしかないです。

マトリックス

今まで生かされてほとんど映画のような人生です。
たぶんどなたでもそうでしょうけれど。
映画なのに妙にうなずいてしまう映画が「マトリックス」です。
全時間全空間が過去未来なく全方向に
自らが生かされています。
そしてそれをあやつる存在がある。
もしかしたらそれは登場人物である自分自身かもしれない。
すべてのすべてを生み出すとろとろの黄金の光が自分。
もし自分だとしたら、こうしている場合じゃないですよって
思ってしまいました。
主人公は俳優キアヌリーブス。
一時期心を病んで、その彼の奇行が知らされたりしていました。
彼のことが書いてある赤塚さんのブログを今朝拝見しました。
人生で大変なことがある人は大変だけれど、何事もなかったかのように
生きているのを見ると、人々に勇気と真理を与えるのかもしれません。
シェアしていただいたら嬉しいです。
ここです。
キアヌリーブスの気持ち

マザー・テレサ 愛の贈り物

自分には愛という言葉はとても遠くて
なんだか恥ずかしい言葉なんですが、
1997年に肉体を脱いだマザー・テレサには
とてもぴったりの言葉です。
マザー1.jpg
マザー2.jpg
この土曜日、文庫本になった本が、著者の五十嵐薫さんから送られてきました。
「インド心の旅」を主催しおそらく日本人で
もっともマザー・テレサさんと親交が篤く、
マザーの帰天の日にもインドのコルカタのマザーハウスにいて
遺体に立ち会った方です。
実際に彼が経験した話ばかりなので、読むものの心に
深く刻まれる言葉群です。
インド心の旅に五十嵐さんにご案内いただいた時期には
すでにマザーはこの世にはみえず、マザーハウスの一番後ろの
いつもマザーが座っていた場所にはマザーの人形がありました。
You did it to me.
(あなたが私にしてくれた)
マザーが講演の冒頭に決まって話す五本の指の
この言葉が胸に迫ってきます。
通常忘れがちな大切なことを教えてくださる本だと感じます。

人として生まれて・・・

この数週間の間に、たくさんの方々から
私設飲み会のお声がかかりました。
久しぶりの方、近くの方、久しく断絶していた方、
学区の方などからです。
それで短期間にたくさんのアルコールをいただいたので、
肉体(心臓)が悲鳴を上げていました。
それでこの2日間本当に幾年かぶりにアルコールを口にしませんでした。
すると夕食がとてもたくさんの量になります。
なのにいつもは眠くなるのですが、眠くもならないのです。
今朝午前2時、急に目が醒めまして、何故だか机に向かい
紺色のブックカバーに包まれた本を取り出していました。
森信三先生の「修身教授録」でした。
なにげなく最初のページを開きます。
先生が40歳の頃教員志望の学生に行った講義の
記録です。
一番遅筆の生徒を窓際の前の席に座らせて記録をお願いしました。
そしてその生徒の記録のスピードに合わせて講義を行われました。
昭和12~3年の頃のことです。
戦前の修身といえば何か古臭く感じるのかもしれませんが、
その「修身教授録」にある言葉群は、まぎれもなく現代の
そして未来の人々に行き方の原点を示すものと感じます。
人間の年齢に関わらずです。
第一節は講義をする生徒に向けてのメッセージです。
何故先生と生徒は出会ったのか、そして何故この講義が
開かれたのか。  必然の出逢いを真剣にゆっくりと説いていきます。
講義が終了し、必然という言葉に合点のいかない生徒が
先生に質問します。
「先生私には先生との出逢いが必然とは思えないのですが。」
先生は答えます。
「まあそう思っても一向にかまわないですよ。
諸君たちはまだ若い、私のような年齢になれば
人間の出逢いが必然だと気が付くことでしょうし、
またそのように思ってこれからの人生を生きるか、または思わないで
生きるかでは人生の意義が大きく異なるとおもいますが。」
というようなことをおっしゃって静かに教室を退室されます。
生徒はうわさに聞いていた以上にしっかりとした
重みのある講義に魂を打たれるものが多いようでした。
第二節は「人として生まれて」でした。
私達の周りを見渡せば、雑草だけでもものすごい種類になります。
また動物の種類をあわせると膨大な種類になります。
なのに何故私達は人として生まれたのでしょうか。
誰でも人生一度は人間として生まれたのは何故なのだろうと
疑問を持ち、さまざまな考えをめぐらせます。
しかし人生を経験していくうちにそのような考えは次第に
遠のいていきます。
そして人生のさまざまな雑事に翻弄され、真に人間として
生まれた意義について深く考えることもなく人生を終えます。
人間ならば絶えず自分が人として生まれた意義を心のうちに
秘めながら人生のさまざまな事柄に対処していきたいものと
思います。
文章が少し違っているかもしれませんが、一気に読み進む重い言葉群です。
そして第三節は「この国に生まれて」です。
世界にたくさんの国がある中で、この大和の国に
生まれたというのは何故なのでしょう。
今に至る、親や先祖、そして遠い民族の連綿として
続く血脈が私達の中に流れていることを知らねばならない。
思い出せと言うかのように深夜の心に響きます。
「修身教授録」忘れずに読み進みたい本です。
今回で6度目くらいになりました。
再びの始まりです。

人はどこにいるのか

世界が平和になったらほんとうに自分は平和なんでしょうか。
自分が平和であることと世界が平和であることとは
どんな関係があるんでしょうか。
自分の見ている世界は自分の意識の現れといわれます。
でしたら自分の心しだいで平和かどうかが決まります。
平和だけでなく幸せ感もそうです。
満足感もそう。
世界がどうであろうと、ほかの人がどうであろうと
ようは自分の心しだいです。
そんなこと言ったって、どこかの国が攻めてきたらそんなこと
言っていられないよ、と人はいいます。
攻めてくることを見る人と、見ない人がいます。
見る人の意識と見ない人の意識がちがうようです。
会社や学校で意地悪な人がいて自分をいじめると
悲しんでいる人がたくさんいると聞きます。
意地悪な人はほんとうにいるんでしょうか。
意地悪な人ってどこにいるんでしょうか。
やってみるしかないですね。
やってみて、自分が体験したことしか確信が持てないように
人間はできています。
人からの話はそれこそ嘘っぽいですね。
ほとんどの方は偉い人の話とか、他の人の体験話を
信じて確信したかのように話します。
自分がしたこと以外は、というかそれもですが
すべては幻想と思っていいようです。
ほんとうに意識しただけの現実を自分が見ているとしたら、
その確信を得たら、もう意識を自分流に持っていくしかないですね。
自分が嬉しいように、喜ぶように。
それはきっとみんなが嬉しくて喜ぶことと
同じかもしれませんね。
気づいて行動することの連続から、
真理が見えてくるかもしれませんね。
ほかの人から言われて動くのでなくて、
自ら動き続けることが大切でしょうか。
「出した意識が返ってくる」が真理です。
信じないでくださいね。(笑)

谷神(こくしん)

真理は勉強したり理解したりするものでなくて、
気づくことなんですね。
個人が気づかなくても、厳然として
いつも真理の中にあるわけです。
だからなんだかいつも集中して一つことに
今を生きている人そのものですね。
それも楽しくて楽しくて仕方ない人は
すでに真理に生かされていますね。
そこに善悪や正邪の判断はありません。
欲って言葉って 昔神様は谷に住むって言う
伝えがあって、だから神谷さんっていうのかと
変に納得したことがありました。
だけど神様はあるっていうか、形がなくて
一つし かないようなので、それはなんだろうって
思ったら、飯島さんに会ってそれは真理法則のことと
納得しました。
だったら欲って言葉がわかります。
谷が欠けている。
谷は神様の住むところだから、いいかえれば、
神様は住むわけないので、真理そのものが谷。
真理そのものが欠けた生き方が「欲」ですね。
真理とは分離感のない「元一つの源」が私達の
ふるさとと、気づいて生きることですね。
現実と思われる世界のどんな欲望も、元一つの源を
感じることに比較すれば、比較しようのないちっぽけなことでしょうか。
車の運転中に「そこ」にはいった飯島さんは、
「目にワイパーがいるよ」って言いました。
激しい慟哭と涙は、何にもかえがたい感慨のようです。
先日のテネモスミーティングのGさんもそうでしたね。
「いつも喜んでいなさい。」
イエスさんがほほえんでいます。

ここにあるもの

「あるヨギの自叙伝」の著者バラマハンサ・ヨガナンダの
師の著書を奨められて読みました。
学びには導く師が必要と言う、いつものインドヨガの
慣わしにはちょっと?でしたが、少ない言葉の中に
この世の真理が見え隠れしていました。
まず世界は言葉があって 始まります。
そして時間があって、変化を象徴しています。
空間があって分離を現します。
そしてすべてのすべてのもと、源の無限エネルギーである
宇宙原子があります。
その4つがそろって現象の世界を認めます。
そしてそれは幻想です。
ですがこの幻想が私たちを導きます。
それは気づきへとです。
何の気づきでしょうか。
私たちは源から離れていることはないという気づきです。
それを学ぶために幻想の現実世界があります。
素敵なご縁が導きます。
やっと会えた人たちに感謝の毎日です。
肉体が時間という変化を表す単位を気にし出す頃、
懐かしい出会いの終焉が近ずいてきます。
分離がない様に、普遍を求めなさいと
常に言い聞かせて毎日が過ぎていきます。
源は一つです。
そして無限です。
無限の霊か有限の肉体か。
真に自分しか存在しないのか。
道探しのたびは続きます。