「レベル4です。余命3ヶ月です。化学療法が必要です。」
医師の方の決まり文句がありました。
もちろん抗がん剤治療をお断りし、なんとか自然療法で治癒できないかと
思い、さまざまな情報を集めました。
とりあえず、がんの摘出手術は生命に関わるほどだったので
していただくことにしました。
暮れの12月になっていました。
5度ほどの医師の抗がん剤の勧めにも応じず、お正月に退院となりました。
その後の検診も数回で、詳しいCT検査とかはしていただけないままでした。
化学療法をしないということは、医師にとっては治療を拒否していると
みなされ、そのような患者に何故検査が必要ですか、との言でした。
なるほどでした。
直腸がんが見つかったとき同時にあった肺の小さながん細胞の
その後や、直腸がんのその後の状況をしらべることもなく、
9ヶ月が過ぎました。
今回はなんだか楽観していました。
なぜかといえば、結果である肉体は、原因である心が変化すれば治ることが
明確にわかっていたからです。
それで「屋久島の春ウコン錠剤」を主剤として他のものと
併用しながら、心の平安の維持につとめました。
「心が快復してきたのだから、必ず治る。」
と強く思いながらも、心が穏やかになってきたのに
何故体にがん細胞ができるのだろうと、娘の真の心の
状態がつかめないことに不安感があったのでした。
他人のことをどうこうすることは、絶対に不可能。
だから他人の人生を、他のものが語ることさえ意味のないこと。
それまでの学びから至極当然なことを思います。
ただ、親子という特別な関係だから、子を哀れに思う心を消すことはできません。
特に手術後の痛みも泣く、心もますます穏やかになってきた状態に
誰もが安堵していた矢先、肺がんの増殖がみつかります。
9月、学区のお医者さんに診ていただいて、そのことが発覚します。
それでもまったくめげない山田家というか、父でした。
ますますこれで背水の陣、ここが正念場と娘と共に病を克服することを
誓っていました。
なぜだか「ファイティン」ということばが、二人の合言葉になりました。
体がつらいとき、力が出ないとき、心が折れそうなときに
「ファイティン!!」と唱和するのです。
家で家族と訪問介護士の方や看護士の方の助けを受けて
娘は、とても懸命に生きたと思います。
「さおりおり」も酸素吸入器が必要になるまでは行き続けました。
5月今度は小脳にがん細胞が見つかりました。
そして平成26年6月18日10時03分静かに母親に抱かれて
息を引き取りました。
自宅のベッドでの、あっけのない最後でした。
最後の一ヶ月間は長い年月、程度の差こそあれ、必ず娘におきた
精神的爆発は一度もありませんでした。
娘は心をとり戻し、今生の体を離したのです。