2406「魂の泥を落とす」2021.7.27 自分で自分を自分するから

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今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年07月21日「魂の泥を落とす」と

2021年07月22日「慈悲の心」の2つの記事を紹介します

「魂の泥を落とす」

今日は、美しい魂になるためにということで、小林正観さんのお話をご紹介します。

この記事の目的も、読んでくださる方の

・霊性を磨くこと

・心をピュアにすること

・神々の心に近づくこと

を目的としています。

ひいては古き良き日本を再興し、地球を平安な世界にするためです。

自分の心を生まれた時のように、ピュアにすることができれば

・何か不思議な力に頼ったり

・人を貶め、マウンティングし、自分を高き者のように見せなくとも

・心ドキドキさせる見えない世界に頼らなくても 生きている間に天国に住み、

そして死後も、天の国に住み続けることができるからです。

私たちが住み、見て感じているこの世の中は、私たちの心が反映されたものです。

ですから、心の中が怒りと憎しみで一杯であったなら、策略謀略、悪口・・諸々の悪しき物を見て、それらに囲まれていることでしょう。

逆に心の中が清く、美しいもので満たされていれば、愛、思いやり、信頼、優しさ、助けあい、お互いさまの心など、様々に心が癒される世界に生きていることでしょう。

これが空海が言った「即身成仏」、つまり、生きながら地獄に住む、天国に住むと言うことです。もし、美しい思いやりの世界で生きて行きたいのなら、まず自分自身の心の洗濯が必要です。
それでは、正観さんのお話をご紹介します。意味が分かりやすくなるよう、少しだけ補足して転載します。

<転載開始> 転載元

魂の特性を見抜いてあげる 魂の話、子育て、教育のお話です。

きれいな魂の状態を泥汚れにしているのは、競うこと。較べること。争うという事です。

きれいな魂のままであるためには、今のありのままでいい という事です。

それは 学校教育では出来ません。

競う 較べる 順番をつけることを学校教育のシステムとして成立させてきたからです。

ところが日本の教育は、本来違うものだったんです。

それは「寺子屋教育」と呼ばれていました。寺の境内で遊んでいる子どもは 寺子と呼ばれ、

その子達に読み書きを教えたところから始まりました。

寺子屋では 一切順位付けはしません。

読み書き そろばん 社会に出た時に文字が書けて読める。そろばんで足し算、引き算。

それらができるようにそれを教え込んだのが寺子屋でした。

そこで順位をつけることは 一切しませんでした。寺子屋教育こそ教育の本質です。

吉田松陰の松下村塾が教え込んでいたことは順位付けすることではなく、「見抜いてあげる」ことでした。

松陰先生は「あなたは こういうほうがいいのではないか。こういうジャンルが向いているのではないか。」

「あなたは こういう分野で 優れているので、その道で身を立てたらどうか」と教えてあげていました。

塾生に対し順位をつけることなど一切しませんでした。

でも西洋教育は違うんですね。

順位付けをする。その結果 その順位を競わせるということになりました。

その教育を日本が受け入れ、「富国強兵」 国を富まして兵を強くする という方向に向かって行きました。

確かに一時は、そうなっていったので、その教育が 一番正しいと 思い込んだのです。

ですが、それは違います。

本当は優しさ、心の温かさとかいうものを評価する世の中のほうが良いわけでしょう。

でも現代社会においては、そういうものが評価されずに魂が濁っているわけですよ。

競うこと 較べること 争うことで、魂が泥汚れになっているわけですよ。

それがある日突然、泥が払われることがある。景色の美しさに驚く瞬間。雪の結晶の美しさに気づく瞬間。その瞬間とは、魂の泥が 一瞬にして払い落とされた瞬間です。

競う。較べる。争うことを全部やめ、ただ自分が必要とされるところでニコニコと生きていく だけでいい。それが何番目であるかなど関係ありません。

母親自身がその事に気付き、変わっていけば、子どもはどんどん変わっていくでしょう。

本当に綺麗な魂に、きっと戻っていきます。

その時、子どもは言うことでしょう。

・お花がこんなにきれい。

・海はこんなにきれいだったの?

・わ~今日の空は すごくきれい。

そうした時 子どもも大人も きっと「仏性に目覚めた」ということだと思います。

ブッダの仰った「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょう しつうぶっしょう)」。

魂の構造が少し分かりましたか?

実は 魂を磨く必要なんてないんです。魂はもともと完全で綺麗なクリスタルです。

磨くのではありません。泥汚れを落とせばよいだけです。

自分の内側の競う心 較べる心 争う心をゼロにすること。

それだけで 魂はもとのきれいな状態になっていきます。

<転載終了>

みなさん、ちょっと周りを見渡してみてください。

・良い学校と言われる所を出た人は、みんな幸せに暮らしていますか?

・勉強嫌いだった同級生は、生きることが苦しく、みんな暗い顔していますか?

・仕事ができず要領の悪い人は、みんな解雇され、貧困に陥っていますか? 下を向いて生きていますか?

そんなことは決してありません。

みんながみんな、一人残らず、自分の居場所を見つけ、そこで生きているはずです。

その場所で必要とされているはずです。

私たちは、生まれる前に、既にその「居場所」を見つけていたからです。

その場所で必要とされていたからです。

以前、山古志村の文化遺産保存のための映像ライブラリを作成したことがあります。

その時に田植えの季節の「田植え唄」の取材をしたことがありました。

春、ブナ林の新緑の中。みんなで水の張られた田んぼに一列に並び、「田植え唄」を歌いながら稲を手植えしていく行事です。昔はどこでも、このような光景が見られたそうです。

その時参加してくださった地元の方は、

高齢の3名の方。そしてもう一人は若い方ですが、知的障害のある方でした。

でも、笑顔がとびっきり輝いているのです。

皆さん、もちろん差別や、特別扱いは一切しません。

普通に話しかけ、普通に笑いあっているのです。

少しの違いなど一切気にしません。それがあるからこその、彼の輝く笑顔なのです。

地域の中で、分け隔てなく、みんながみんなを大切にして生活していることが、よくわかる光景でした。

彼の心には何の心配もなく、そして人々の差別や偏見は一切感じなかったことでしょう。

自分が丸ごと受容されていることを知っていたからです。

私たちも同じです。心配しなくても、みんなに居場所が用意されています。

その居場所で自分のことを必要としてくれる誰かが必ず居るのです。

競う 較べる 順番をつけることなどしなくても私たちは本来の伸びやかな、美しい心のまま生きていけるのです。

競う 較べる 順番をつけることを止めた時、神さまを信じ、自分を信じ、あるがままの自分でも生きていける。生きて行っていいんだと、心から信じられた時、私たちの魂は本来の美しさと輝きを取り戻すことでしょう。

きっとこれこそが、私たち人間の生きるべき本当の姿だと思います。

皆さんも、一足飛びではなくとも、少しずつ、そちらの方向に進んでみませんか?

きっとお幸せになれますよ。

「慈悲の心」

私たち人間は弱いものです。

・正しくありたい

・優しくしたい

・笑顔でいたい

・人の役に立ちたい

そう願っていても、何時も弱い心が頭をもたげます。

何が正しいか、分ってはいても,なかなか一歩踏み出せないでいます。

生きている間は、ずっとその繰り返しかもしれません。

でも諦めないでください。みんながそうなんです。そこが出発点なんです。

ブッダが生前こんなことを言いました。

「嘘をつけないような人になっては いけない 優しさは真実に勝る」

ブッダの仰りたかったことは相手を思いやる優しさや、調和の為の嘘は、真実よりも尊い・・ と言う事を仰ったのでした。

また、こうも仰りました。

捨戒の法

ブッダが仰るには、仏教徒が戒律を破るとき、

いま仏教を捨てます、と天に向かって言います。

そして、酒を飲んだり、戒律を破る。

その後、また仏門に帰依します、と言って戻れば、それで良いのだよ。

ブッダは人間の弱さを知っていました。そして温かい目で人間を見ていました。

過ちを見て、人を切り捨てるようなことはなさいませんでした。

人を追い詰めることはなさいませんでした。

ブッダは戒律重視ではなく、優しさ(慈悲)を教えていたからです。

また同じく人間の弱さ、哀しさ、神仏への憧れの気持ちを正しく理解していた空海も、このような言葉を残しています。

<転載開始> 転載元 

人は、着の身 着のまま ありのままの自分でいても

愛と慈悲を差し出すことで 即 仏になることができる

仏性は つねに 人の中にあるからこそ

探し回る必要もなく 遠くに求めに行くこともない

ただ、あなたが 優しさがなんなのかを知っており

それを 目の前の人に そっと差し出すならば あなたが人の痛みを知っており 

それを目の前の人を癒すものとして あたたかい言葉をかけるなら

それこそが、仏の姿の現れだからです

愛と慈悲 すなわち 仏性は 頭で 理屈として 理解するときではなく

わが身をもって 実践するとき 花ひらく

<転載終了>

空海は、

・人の痛みを知っていること

・優しさがなんなのかを知っていること

が大切であると仰いました。

すなわち、私たち自身が、その痛み、苦しみ、辛さの中に

一回身をおいて経験してみなければ、本当に理解できない心です。

今まさに、悩んだり道をはずしたりしながら、

頭をあちこちにぶつけて暮らす 私たちのことです。

この悩み、苦しみの中に在るからこそ、人の優しさや、ありがたさが分かり、

「お陰さまの心」が湧き、人を癒していくことができる。

仏性を発揮していくことができるようになります。

さてもうひとつ、空海の優しさがにじみ出ている

「祈り」について、現代語で意訳してくださっているものをご紹介します。

<転載開始> 転載元 

手と手を合わせて 目を閉じ 頭を下げてみてください。

心が穏やかになるのを感じませんか?

祈りは心に平和をもたらします。

やさしさは祈りから生まれてきます。

祈りとは仏像に向かって 拝むことではなく、

自分の中に湧き起こったことに対して 行うもの。

祈りは愛をもたらします。

<転載終了>

人は弱いものです。

いくら正しい道を示されても、「こうであるべきだ」と正論を教えていただいても、

なかなかそう簡単に行きません。

でも本当はそうしたいのです。心で分かっていますから。

そして、それが自分には簡単にはできないとわかると、結局あきらめてしまい、

また元の苦難の日々に埋もれてしまいます。

正しい道を示されても何の役にも立ちません。

せっかく芽生えた神仏を敬う信仰の心を閉ざしてしまうかもしれません。

仏教の教えは、対機説法(相手の状況に合わせて説く教え)と言われています。

ですので、ブッダも空海も様々な方法で真理を説き、

様々な方法論を用意してくださいました。

神社やお寺さんに行き、手を合わせ、家族のために

家内安全; 身体健全; 延命長寿; 中気除; 無病息災; 交通安全;

学業増進; 入試合格; 試験合格; 就職成就; 良縁拝受; 安産息災;

開運福寿; 心願成就; 厄災難除; 方災消除; 病気平癒

などの身内の幸せを願う気持ちは自然なことです。

神社は「願い事ではなく、お礼を言いに行くところ」と教えてくださる方も沢山いらっしゃいます。確かにその通りです。

ですが、私達庶民の願いは、もっと身近で切実な、今の今、苦しみながらも精一杯生きで行こうとしている。そんな生活の中から生まれた願いです。絞り出すような心の思いです。

私は思います。神さまは、そんな私達でもきっと許し、素直に頭を下げ、

真剣に神様に祈る人間を、愛でて下さるのではないかと。。

そして、神さまの元に来た私達を、祓い、清めて下さるのではないかと。。

人に迷惑を決してかけず、自分の力で生きて行くんだ・・

そう思いを定めて生きるのも良いでしょう。

ですが、私たち誰一人、他の方のお陰なくして生きられるものはおりません。

全てが「お陰さま」で成り立っています。

自分の力だけで生きていくとは、宇宙的視点から見れば少し傲慢な心かもしれません。

心弱かった私たちに、信仰の心が芽生え、自分の非力さを認識し、素直に頭を垂れる。

その最初の動機は、自分や家族のためなので、まさしく利己的かもしれません。

ですが、それこそが、本当のスタート地点ではないかと思うのです。

小林正観さんはプレアデスのアトラス星から地球に来られました。

その後、ブッダの弟子、空海の弟子の時代を過ごします。

今世においてもブッダの教えを中心に講演していましたので、比喩や対機説法を多用していました。

正観さんも、人間の弱さを熟知したうえで、まずはスタート地点に立って頂こうと、

「ありがとうや感謝の心を持つことは、幸せになる第一歩ですよ」と、

はたから見れば非常に利己的な言い方をなさいました。

ですがそれも、そこをスタートとして、神さまの心に近付いて頂くための方便でした。

それを彼は「究極の損得勘定」と呼んだのです。

私もこのブログで書くことは、

・読んでくださる方が幸せに思えること、

・心がほっこりするようなこと

・心が洗われるようなこと

を書くように心がけています。

難しい言葉を使わず、方便も交えた上で読んでくださる方に心の大切さ、心の中の神さまに気付いて頂きたいからです。

それは、何か凄いパワーを人や神から頂いて、他力的に幸せを掴むのではなく、ご自分の力で、ご自分の心を開き、本当の幸せ、永続する幸せを、自ら手に入れて頂きたいからです。

ご自分が幸せになれば、きっと周りのご家族もお幸せになれることでしょう。職場でもそうです。

どうか皆さんが、内に居らっしゃる神さまに気付き、お幸せになれますように。