標 柱 030530

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「伊路波村役場」の標柱が完成した。
一年ほど前から、伊路波村役場の前に
字を刻まれることなく立っていた、2メートルの高さの
木の標柱。伊路波村の編集長がどこかから
いただいてきたものだった。
一ヶ月前に、突然思い立って、四日市の落合さんに
「伊路波村役場」の字をお願いした。
きっと落合さんのこと、お礼に代金は受け取らない。
だから替わりのお礼を先にした。


一ヵ月後、落合さんから手紙が届いた。
いつもそうであるように、一字一句もむだのない
文章だった。
伊路波村の標柱ができたこと、そしてどのような気持ちで
その標柱の文字に臨んだのかということが、書かれていた。
そしてお礼代わりの品のスイッチを 本日 入れました。と
書いてあった。
なんという律儀さだろう。
「名にしおう
   伊路波村役場の
   揮毫の
 榮に浴し
 気分最幸です
 あれこれ おもいは 百千
 別紙の金子先生の
 心と かわりません
     手の仕事は
 手も 紙も 無になって
      自分の
 はかりしれぬ ところに
 のこったものが
 黒々と 存るのです
 神のわざにて
   
   ふしぎな はたらきの
 おかげでございます
 文字縁にかんしゃ
 この標に 集う
 すべての方々に
    光 みちますよう
     落合 勲 拝 」
文中の金子先生とは、毎年終戦記念日に行なわれる
「全国戦没者追悼式」の標柱の文字「全国戦没者之霊」を
昭和38年から連続31回書きつづけられた書家だった。
その同封されてきた、金子先生の記事を拝読し、
標柱を落合さんに依頼した、軽い気持ちに、
赤面する想いだった。
金子先生夫人、寛子さんの文章から。
「通常は七月に入ると、武道館での揮毫と同じ条件で一日に
5枚ずつ練習を始め、完全に揮毫
できるという自信をつけました。
筆は5本用意して次々に試して一本にしぼりました。
8月13日の揮毫当日は斎戒沐浴をすませ、下着を新しくし、
一年に一度の蝶ネクタイをつけ、紺のスーツを着用し、神仏に
手を合わせて無事揮毫できることを祈念し、10時50分の厚生省
からのお迎えの車を待ちました。—-」
もし当日書き損じれば、木を削る必要があり、職人さんや
立会い人の幾人かの書家たちが、ひかえていたという。
字を書き上げるまでの5分間はシャッターの音と金子先生の
字を書く音のみの静寂の時間。
まさに鬼気迫るという表現ピッタリだったとか。
一度も木を削ることなく、無事に毎年書き上げた31年間は
ご夫婦にとって大変に貴重な年月であったことだろう。
落合さんはこの記事をもって、「伊路波村役場」の揮毫に
関するご自分の心構えを伝えたかったのだろうか。
四日市に引き取りに出向いた。
「標柱」との初対面。
まさに落合勲その人が立っているかのようだった。
しばらく 立ち尽くすしかなかった。
落合さん ありがとうございます。
落合さんや私達がこの世からいなくなっても、
「伊路波村」の志を継ぐ方たちが、必ずやこの標柱の前に
立ち尽くすことでしょう。
「伊路波村」にいのちが宿ったかのように嬉しい日。
ちいさないのちの集合が、やがて大きなうねりとなって
行くことが 決っているかのような 標柱の出現。
行く道を おろそかには 歩けません。
ありがとうございます