おばあちゃん
2005-07-28 20:31:32
昨夜、おばあちゃんの夢を見た。
痩せていて、すらりと背の高いおばあちゃんの横で
あたしは並んで歩いていた。
あたしより4歳年上のいとこの真紀ちゃんが前を歩いてる。
真紀ちゃんのおばさんもいる。
みんなでどこかへ向かっているみたい。
おじいちゃんのところらしかった。
おじいちゃんはおおきな大学病院に入院していて、
みんなでお見舞いに行く途中だった。
天気が良くて、涼しくはないが、暑くもない。
どうやらおじいちゃんの病気は大したことはなく、
昔からある持病を少しこじらせて、何年かに一度は
入院するそれだった。
完全に治るわけではないが、うまく付き合っていくもの
という認知が、なんだか家族の間ではお約束になっていて
お見舞いの道すがらも、みんなの胸はざわざわするでもなく、
丁度今日の気候みたいに、すこぶる良くはないが、
全然悪くもないといった感じだった。
あたしはおばあちゃんの腰に腕を巻きつけて、じゃれながら歩く。
おばあちゃんは背が高いので、あたしが腕を回しても
腕は腰の辺りで落ち着く。
「細いなぁ・・」
と心の中でつぶやく。
そこで目が覚めた。
夜の10時だった。
寝付いて2時間くらいたった頃だった。
薄目をあけた視界は涙でぼんやりしていた。
泣いていたのだ。
あたしのおばぁちゃん菅谷富子は4年くらいまえに亡くなっている。
あばあちゃんが生きている頃、あたしたちの兄弟は
いろいろと可愛がってもらっていた。
孫であるあたしたちが大きくなってからも、
遊びに行けば喜んでくれ、美味しいものを食べさせてくれた。
与えてもらったものに比べ、あたし達のしてあげられたことは
どれほどのことだったんだろう。
あいにく、大人になってもわたしは人としてまだ未熟だった。
貰うばかりで、あげようとしたことは本当にささやかなものだ。
そしてそのまま、おばあちゃんは死んじゃった。
後悔とか、自分を責める種類の気持ちは、
浮かんできてもなるべくストックせず、
流れる川にまかせて、手を振りただ見送った。
そうすることが、いちばんおばあちゃんに届く澄んだ合図だと思ったし、
過去の至らなさを浄化する近道とも思ったからだ。
でもいまでもシュミレーションしてみる。
私は最近老人ホームで仕事を始めたのだけれど、
そこに住む、大勢の、おじいちゃんやおばあちゃんへの
対応を学ばせてもらっている。
あのころは、気を利かせたり使ったりというのは
とてもエネルギーのいるものだったけれど、
クセのように身についてしまえば、
お互いの間に、何気なく幸せな時間が訪れる回数は
増えてくる。
何気なくおばあちゃんにしてあげられることは、
今だったらあった。
それをたまに、シュミレーションしてみる。
そしたらおばあちゃんが夢に出てきた。
あの夢で、あたしとおばあちゃんは笑っていた。
特別何かをしたりあげたりしたわけじゃないけど、
楽しいな、と思うあたしとその時を共有しているのが
ただ嬉しそうだったのだ。
おばあちゃんは幸せそうだった。
涙目で目が覚めたあと、
それから覚醒した頭で、また「うへん、、」と泣いた。
『おばあちゃんは逢いに来た。』
と、思った。分かった。
一足先に、あたしには見えない世界に行ったおばあちゃんは、
「そう」って言いに来たのかもしれない。
あたしは嬉しかった。
もうすぐお盆。
来月頭には、おじいちゃんと一緒に
おばあちゃんのお墓に行く約束をしています。
ありがとうございます。
菅谷 理沙