他人様には決して言えない、みっともないことばかりして
生きてきた。だから他人様のことを、これっぽちも言えないはずなのに
言ってしまう、情けない自分です。
決して他言できないことを、一生身に携えて
生きていって、死んでいく多くの人々、というか
ほとんどの人々の荷物を、これっぽちも軽くして
あげることなんかできないことに気づきます。
まのーんが書いていた・・・、
「神との対話」を読んでも、九州のA喫茶に行っても、
滋賀のA村に行っても、プライナスで様々な体験をしても、感動した反面、実は本気で思ったのが、
「もう、やることひとつしかねえじゃん!!」
であった。
結局、愛を表現して生きてくしかないのだ。
ああ、それか・・・・。
やはりそれをやるしかないのか・・・。
たとえ技術や情報やスタイルや方便にどれだけ卓越しようと、
行為のはじめと終わりと最中に愛が満ちてないともうなにも味わえないのである。
・・・・・・・
・・・・・・・
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愛の実践ってなんだろう。
日曜日、親戚のお墓を家族で訪ねた。
明治時代のの古い古いお墓を、
娘が、息子がタオルできれいにした。
お線香の煙の遠くから、先祖が近寄ってくる。
あの喜びが広がる。
待っていた人々。
その時ちょうどの家族の集い。
その日がちゃんとある。
韓国ドラマ「秋の童話」に嵌った。
全15話。山口百恵さんの「赤いシリーズ」の
模写ドラマだが、しだいに引き込まれていった。
一度も泣けないままに終わるのかなって
思ったけれど、14話で初めて大泣きした。
どんなこと。?
なるべくみんなのために自分を犠牲にした、
主人公の男性が本当のことばを相手に
告げる場面だ。
「サラゲ!! ウンソ!!」(愛してる ウンソ)の絶叫は
、「蝉時雨」で幾十年ののち想いを遂げた主人公の
心に通じているのだろうか。まったく状況は異なるけれど。
「オールイン」「チャングムの誓い」「秋の童話」と
ずいぶんの時間を純愛に捧げたつもり。(笑)
できないから、感じるんだろうか。
生きている限り、情念や業想念からの縛りから抜け出ることは
できないのかも知れない。
でも人は必死に抜け出ることを求める。
すべては、みずからの執着から生まれでたものだろうか。
なるべくは流れる映像のようにこの世を見つめる
観客でありたい。
タカオの話から
四苦八苦 4*9=36 8*9=72
36+72=108 ?(笑)