「奇跡とは、(すべての外観は、まさに外観である)からこそ
変化し、実相が伴うべき不変性をもち得ない」
目にする外観が真実の世界(実相世界)なら、
変化するはずがなくて、その変化するものは
実相ではないと言っています。
ですから奇跡は、いかなる形の損失や苦しみに
よっても縛られてはいないことの証拠でもありますね。
“神の使者から奇跡の道へ その100~奇跡とは、(すべての外観は、まさに外観であるからこそ・・” の続きを読む
再生大和 霞の中にて活動する
「奇跡とは、(すべての外観は、まさに外観である)からこそ
変化し、実相が伴うべき不変性をもち得ない」
目にする外観が真実の世界(実相世界)なら、
変化するはずがなくて、その変化するものは
実相ではないと言っています。
ですから奇跡は、いかなる形の損失や苦しみに
よっても縛られてはいないことの証拠でもありますね。
“神の使者から奇跡の道へ その100~奇跡とは、(すべての外観は、まさに外観であるからこそ・・” の続きを読む
「誰についてであれ裁かない者でありなさい」
ついつい自分の考えでものを判断しがちですね。
それでよけいなことを言ったり、変な行動を
とったりしますね。
そうするとその自分の裁きに反応するように
目の前の兄弟が攻撃したりします。
それも全部自分のことですものね。
“神の使者から奇跡の道へ その101~誰についてであれ裁かない者でありなさい” の続きを読む
「贖罪は幻想を訂正するのであって、
真理を訂正するのではない」
贖罪って、この世界では、なにか罪をおかしてそれを
償うために行いをするものと言いますね。
でも奇跡の中の「贖罪」は
罪と罪悪感の実在性を信じる信念を訂正することです。
“神の使者から奇跡の道へ その103~贖罪は幻想を訂正する・・・” の続きを読む
「どの(教えて学ぶ状況)もそれぞれに異なる関係から始まる。
究極のゴールとは常に同じである。すなわち、その関係を、
両者が共に神の子を罪なき者として見ることができる
神聖な関係とすることである。」
出会いによる救済に偶然はなく、出会うべき者たちは
出会うことになる。
なぜなら、一緒であれば、彼らに神聖な可能性があるからである。
彼らは互いに出会う用意ができている。
“神の使者から奇跡の道へ その104~どの(教えて学ぶ状況)もそれぞれに異なる関係から・・・” の続きを読む
「世界を救うためには、何人の神の教師が必要か」
この問いの答えは「ひとり」です。
なぜ多数という幻想が必要でしょうか。
その理由は単に幻想に惑わされている者にとって、
実相は理解できるものではないからですね。
“神の使者から奇跡の道へ その110~世界を救うためには、何人の・・” の続きを読む
「犠牲の真の意味はなにか」
真理においては「犠牲」という言葉自体は
まったく無意味ですね。
それは一つのレッスン、そして幻想でしょうか。
実相においては学ぶべきことはひとつもない。
この世界が与えることのできるものは何もない
という事実を悟り、受け入れるには、多大な学びを
必要とするようですね。
そしてこの世界が定義する犠牲で、肉体に関連
しないものは皆無でしょうか。
“神の使者から奇跡の道へ その111~犠牲の真の意味はなにか” の続きを読む
「最後には一人ひとりが審判されるのか」
まさしく!その通りのようですね。
しかし、もはや恐れと結びつけなくなるときまで
それは訪れませんね。
誰もがそれを歓迎するようになるとき、それが彼に
与えられるのでしょうか。
“神の使者から奇跡の道へ その113~最後には一人ひとりが審判されるのか” の続きを読む