
26・無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?
無欲が智慧である。二つは別のものではない。
それは同じである。無欲とは、心がどのような
対象物に向かうことも差しひかえることである。
智慧とは対象物が現れないことを意味している。
別の言い方をすれば、自己以外の何ものも
求めぬことが無執着、あるいは無欲であり、
自己をけっして離れないことが智慧である。

再生大和 霞の中にて活動する

26・無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?
無欲が智慧である。二つは別のものではない。
それは同じである。無欲とは、心がどのような
対象物に向かうことも差しひかえることである。
智慧とは対象物が現れないことを意味している。
別の言い方をすれば、自己以外の何ものも
求めぬことが無執着、あるいは無欲であり、
自己をけっして離れないことが智慧である。

27・自己探求と瞑想の違いはなんでしょうか?
自己探求とは、自己の内に心を
とどめておくことである。
瞑想とは、自分の自我をブラフマン、つまり、
存在・意識・至福であると思いなすことである。

28・解脱とはなんでしょうか?
束縛されている自我の本性に尋ね入り、
その真実の本性を悟ることが解脱である。

ある帰依者がシュリー・ヴァカヴァーンに尋ねた
「各想念ごとに主体と対象が現れては消え去ります。
主体が消え去った時「私」も消え去るのでしょうか?
もしそうなら、どのように「私」の探究を進めれば
よいのでしょうか?」
“ラマナ・マハルシとの対話(TALKS)より 29 ある帰依者が・・” の続きを読む
質問者
真我は「聞く者、考える者、知る者」などと描写されますが、その後で再び「聞く者ではなく、考える者ではなく、知る者でもない」と描写されます。
そうなのでしょうか?
マハルシ
その通りです。
一般の人は知性(ヴィジニャーナマヤ・コーシャ)の中に変化が現れたときに自分自身に気づきます。そのような変化は現れては消え去る一時的なものです。それゆえ、知性(ヴィージニャーナマヤ)は鞘(さや・コーシャ)と呼ばれるのです。
“ラマナ・マハルシとの対話(TALKS)より 30 真我は・・” の続きを読む
1939年1月23日~28日 対話616(59才)
質問者
シーヴァ・ナディとは実体があるものなのでしょうか?それとも想像の産物なのでしょうか?
(シーヴァ・ナディ 個人の魂の霊的な神経経路)
マハルシ
ヨーギーたちはジーヴァ・ナディー、アートマ・ナディー、パラー・ナディーと呼ばれるナディー(霊的な神経経路)が存在すると言っています。「ウパニシャド」はそこから幾千ものナディーが派生するセンターがあると述べています。ある人はそのようなセンターは脳に位置すると言い、別の人は別のセンターに位置すると言います。
“ラマナ・マハルシとの対話より 31ー1 「シーヴァ・ナディとは・・」” の続きを読む
つづき
今もなお内在する潜在的傾向がサマーディの静寂を妨げないようにするには、生来のヴァーサナーを根絶しなければならないのです。そのためヨーギーはクンダリーニーを(スシュムナーの延長でしかない)ジーヴァー・ナディーと呼ばれる経路を通してサハスラーラーからハートへと降ろします。このようにスシュムナーは曲線を描きます。それは太陽神経叢から始まり、脊椎を通って脳に昇りつめ、そこから曲がって降りて行き、ハートの中に到達するのです。ヨーギーがハートに達したとき、サマーディは永久的なものになります。これでハートこそが最終センターであることが理解できるでしょう。
“ラマナ・マハルシとの対話より 31ー2 ” の続きを読む