3064「青空ひろば」2023.5.17 自分で自分を自分するから

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今回は立花大敬さんの「青空ひろば」の最新の記事を紹介します。

948 2023.04.17~ 962 2023.05.02

以下の文章は、学校に勤めていた時に、中学2年の学年通信に掲載したものです(もとのものから少し増補しています)。

表題は「『挨拶(あいさつ)』について」でした。

パソコンの中に残っていたのを読み返してみて、なかなか面白い文章だったので紹介することにしました(もう何度も掲載して申し訳ないのですが、大切な文章だと思うので再三掲載させて頂きます)。

『挨拶(あいさつ)』について

今日は、『挨拶』について考えましょう。

よく「朝、先生や友達と出会ったら、『お早うございます』と、しっかり挨拶しなさい」と指導されます。

でも、なぜ挨拶しなければならないのか、その理由はなかなか教えてくれません。私は、小さい頃から理屈っぽい人間だったので、押しつけるようにそんな指導を受けると、心の中で反発したり、そっぽを向いていたりしたものでした。

この学校出身の先生の話では、昔は「なぜ挨拶しなければならないのか、自分で納得できるまで挨拶しなくてもいい」と指導するすごい先生もいらっしゃったそうです。

まあ、これは極端な例ですが、そこまでいかなくてもたとえばこんな実験をしてみたらどうでしょうか。

三日間、挨拶を一切しない。次の三日間は元気よく挨拶する。そして、挨拶しない三日間と、挨拶した三日間で、自分が体験する(感じる)世界はどう変わるのか調べるのです。面白い結果が出そうです。

サッカー日本代表監督だった岡田武史さんが母校の早稲田大学でされた講演の記録の一節に、挨拶することの意味が語られていて『なるほど!』と思いました。

それによりますと、『挨拶とは、僕は君という人間が僕の世界(心)に存在することを認めますよ、許しますよ』という相手に対する合図だというのです。

ということは、もし出会った人に挨拶しないということは、『私は、君という人間が、私の世界(心)に存在することを認めませんよ、許しませんよ』という合図なんですね。だから、挨拶しないということは、相手に対してとても失礼に当たるし、挨拶されない人もとても腹が立つわけなんです。

AさんがBさんに挨拶しないとします。BさんはAさんに挨拶しても、いつも挨拶が返ってこないものだから、次第にAさんに挨拶しなくなります。これを先ほどの『認める、認めない』の議論をもとに考えると、Bさんは次第に『自分の世界(チーム)にAさんが存在することを認めなくなる、許さなくなる』ということですね。

もし、Aさんがクラスのすべての人に挨拶しないとすれば、クラスのすべての人がAさんがクラスに存在することを認めなくなる、許さなくなる、ということになってしまいます。

具体例をあげると、Aさんが困っていても無視する(無視とは『無(な)いものと視なす』ということですね)。意見を主張しても協力しない、そのようになってしまいます。

今度は、逆にBさんの方の態度を見てみましょう。

Bさんの態度にも至らぬところがあります。

Aさんに挨拶されないと腹を立てて自分もAさんに挨拶しないということになれば、Bさんの世界(心)のなかにAさんがいなくなります。その分、Bさんの世界(心)は狭くなったのです。心が狭くなると『徳』が減るのでしたね。無視する人が増えるほど、『徳』はどんどん減っていってしまいます。

(註)「徳」とは、インドの言葉で「グナ」といって、「現世で使用可能な心のエネルギー」のことです。「心のエネルギー」が多いと、こうありたいというあなたの想いがよく、早く叶うようになります。

また「心のエネルギー」は「心の面積」に比例し、「広い心」の人は、「徳エネルギー」が高く、「狭い心」の人は、「徳エネルギー」が少ないのです。

「高徳」の人とは「心のエネルギー」が高いレベルにある人で、人も世界も、この人の言うまま、思うままに、なぜか素直に動いてくれます。

「薄徳」の人では、その人が目指すものがどんなに正しくても、人や世界はその人が提案する通りになかなか動いてくれません。

「不徳」な人では、「心のエネルギー」がマイナス状態なので、その人が提案する意見がどんなに正しくても、なぜか人々や世界に反発を誘い、攻撃されてしまいます。

法華経というお経に常不軽菩薩(じょうふきょう ぼさつ)が登場します。

昔々、常不軽という、あまり頭がよくないお坊さんがいました。

師匠は『あいつには難しいお経は理解できないだろう』と、「常不軽や、みんな仏様なんだよ。Aさんも、Bさんも、犬も猫も、山も川も・・・、みんな仏様なんだから丁寧に礼拝しなさい」とだけ教えました。

常不軽さんは、頭は悪いけれど、まじめで忍耐強い人だったので、それから毎日、一日中、町の中や、山林や・・・を、ひたすら礼拝して歩き回りました。犬に出会うと『あなたは仏様です』と犬を礼拝し、人にあえば『あなたは仏様です』とその人を礼拝します。犬も人も気味悪がって逃げていったり、腹を立てて杖で打ったり、子供がバカにして石を投げたりしました。それでも常不軽さんはめげずに礼拝行を続けました。

こういう昔話をして、お釈迦様が弟子たちにいいます。「君達、実はこの常不軽こそ私の過去生(かこせ)だったのだよ。このように私はすべての人やモノを、ひたすら礼拝して回り、すべての人やモノを許し、仏として認める努力をしたことによって、今、こうして君達をはじめ、多くの人やモノから仏として認められる存在となれたのだよ」

どうですか。すべての人やモノを許し、仏として認める努力を続けた常不軽さんが結局、すべての人やモノから仏として認められるようになれたのですね。ちなみに、この常不軽さんの『礼拝して巡る行』が取り入れられて、比叡山延暦寺の『回峰行』となりました。

自分がした挨拶に反応、効果があってもなくても、それは問題ではないのです。すべての人を認め、許すことができる、私がそんな人物となれますようにと、祈りをこめて挨拶するのです。

慧忠(えちゅう)国師(こくし)という偉いお坊さんがいました(唐の時代)。侍者は耽源(たんげん)真応(しんおう)という名でした。

ある日、国師は侍者を「真応」と呼びました。侍者は「ハイ」と答えました。

しばらくして、国師は再び「真応」と呼びました。侍者は「ハイ」と答えました。 

またしばらくして、国師はさらに「真応」と呼び、「ハイ」と答えました。(無門関第十七則)

私だったら、師匠に呼ばれて返事したのに、次の反応(用事をいいつけたりする反応)がなければ不安、不満に思ったり、バカにされたように思うかもしれません。また、何度も、何度も無反応に呼ばれ続けたら、きっと腹を立ててしまうでしょう。 

でも、見返りを求めない、ただする返事(挨拶)であれば、腹がたつこともありません。何万回裏切られても、ひたすら「ハイ」、「ハイ」返事を続けてゆくだけのことです。

この禅問答をさらに探求してゆくと、この公案の本当の解答が見えてきます。

「真応」と呼び「ハイ」と答える。これでもう完結しているのです。

国師と耽源のいのちが、この応答の一瞬にひとつに融け合い、温かいものが通い合い、光に包まれているのです。彼らはそれを味わい、楽しんでいるのです。一度でいいのだけれど、なんだか一度で終わるのはもったいない。だから、二度、三度の応答になったのです。

女性が恋人を「ねえ」と呼びます。「なに」と彼が答えます。本当は何も用事があるわけではないのですけれど、二つのいのちが一つであることを確認したくて呼ぶのですね。

朝起きたら、外に出て東の空に向かって、大きな声で元気よく、「オハヨー」と叫んでみましょう。これは、『僕は、この世界を認めますよ。許しますよ』という、世界に対する合図です。そうしたら、世界はすぐに「オハヨー」と返事してくれるでしょう。

この返事は、『あなたという存在が、これから始まろうとしている素晴らしい未来に存在する意義を認めるよ』という世界からのメッセージなのです。

学年通信に掲載した文章は以上ですが、さらに「挨拶」について考察してみましょう。

『挨拶(あいさつ)』について(その2)

長沙(ちょうさ)禅師という方が、「尽十方界、是れ沙門の家常語」と弟子達に語っておられます。

「沙門(しゃもん)」とは、「修行僧」のことです。「シャーマン」という言葉がありますね。それから由来して仏教で使用されるようになった言葉だそうです。

「家常語(かじょうご)」というのは、「日常会話のコトバ」のことで、「オハヨー」とか「ヤアー、コンニチハ」などのことですね。

「尽十方界(じんじっぽうかい)」とは、「時空のどこにも仕切りがない宇宙いっぱいのもの」という意味です。

つまり、「君たちが、『オハヨー』と人や世界に、心から呼びかけることができれば、そのコトバに宇宙全部を宿らせることができるんだよ。

そのコトバを通して、君と人と世界が一体化するんだよ。そのコトバで、自分だけでなく、人や世界を癒し、解放することもできるんだよ」という意味です。

坐禅やお経で、救われたり、人を救ったりするのは尊いことであるけれど、それはまだ途中の境地なのですね。

禅の最後に到りつく境地は、何の特別なこともない、皆と同じような当たり前の生活をしながら、その言葉やふるまいで、人や世界を明るくしたり、身心の固まりをほどいて楽にしてあげたり、その人が進むべき道を開いてあげたりする。でも誰も(自分も人も)その人がそのような救世の役を担っていることに気づいていない、というものなんですね。

「オハヨー」という言葉はいいですね。私は大好きです。

「コンニチハ」や「コンバンハ」もいいけれど、何だか漢語の響きに引きずられた言葉になっていて、ピッタリきません。

子供が小さかった時は、日の出の太陽に向って三人並び、「オハヨーサン」といっせいに叫んだものでした。歌も作って一緒に歌っていました。「さん」は「SUN」にかけています。また「燦」、「讃」などにもかけています。

太陽さん オハヨーさん 太陽さん オハヨーさん

朝日を浴びて サン、サン、サン

「オ」は、遠くに呼びかける言霊です。神さまに呼びかけ、お招きする時は、「オーー、オーー」と発声します。神官の方が神事で称えられるのを耳にされた方もいらっしゃるでしょう。

「ハ」は、パーと開き、広がってゆく言霊です。「ハナ」は、パーと花弁を四方八方に開く「花」であり、また「放(はな)」ですね。

「ヨ」は、続く言霊で、時間的にも、空間的にも日の出の太陽の生成発展の気が伸び広がって継続してゆくのです。「世(よ)」や「代(よ)」にも繰り返し継続するという意味がありますね。

ですから、朝だけでなく、昼も夜も、いつでもどこでも、誰にでも「オハヨー」とだけ呼びかけていればいいと思います。口に出すのはおかしければ、心のなかで人や動植物や自然に「オハヨー」、「オハヨー」と、ひたすら呼びかけ続けたらいいですね。

「オハヨーサン」でもいいですね。私たちは「お日さまの仲間」なのですから、「サン(SUN)」も付けておきたいですね。

百丈(ひゃくじょう)禅師のことを前のブログで紹介しました。

ずいぶんマジメで、ちょっと堅苦しいところがある方だったようですが、最晩年になって、少しホドケテこられてから、「百丈三訣(さんけつ)」という「人生の極意三か条」を残しておられます。

(1)喫茶(きっさ)

これは、お茶(コーヒーでもよい)を、自分だけ、あるいは人と共にゆったり味わえるようになれば「人生の達人」だというんですね。つまり、世のアレコレは多々あっても、今のこの喫茶の瞬間だけは、何もかも忘れさって、お茶をしみじみ味わえるようになれば本物だというのですね。

(2)珍重(ちんちょう)

これは、日常の当たり前の挨拶コトバのことです。「オハヨー」や「コンニチハ」や「サヨウナラ」のことですね。このようなさりげない、当たり前の会話や動作ふるまいを人にふわっと投げかけて、そして、人や動物の身心のひずみや痛みをほどいてあげて、そのモノ本来の位置に揺り戻してあげることが出来るようになれば、人生の達人、本物なんですね。

(3)歇(けつ)

これは、「ひと休み」という意味です。百丈さんは80歳を過ぎても、セカセカ動き回るというような方ですから、この「歇(ひと休み)」が一番難しい条目だったかも知れませんね。

人と交渉していたりして意見が食い違ってくる。コジレにこじれ、ネジレにねじれて収拾がつかなくなってきた時、ある人が、スッと一同の気を逸らせるようなさりげないコトバを放って、みんなの頭や身心を「ホッとひと休み」させてあげることが出来るようであれば、その人は人生の達人、本物なんだというのです。(完)