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前回の続きです
ああ、相当脱線しましたね。アマテラス様の復活の話は、そのうち詳しく解説することになると思います。ここでは、今回の話のテーマである「許すということ」に戻りましょう。
ダイアーさんは結婚して息子さんがいるのだそうです。
ところが、ダイアーさんには息子さんとの距離感がわからないんです。なんでか分かります?それは、ダイアーさんには「父親像」が無いからなんです。
お父さんは家庭を捨てて出ていったでしょ、だから「父親像」がない。理想的な父親像でなくてもいいんです。当たり前の普通の父親像があったらそれでいいんですけど、それも無いんですよ。どういう風に息子と付き合ったらいいかというモデルが無いんですから息子との関わり方にずいぶん苦しんだみたいです。
ある時ですね、息子さんがバーで友達と一緒に飲んでいて、ケンカに巻き込まれて前歯を折ったという事件があったんです。
それでダイアーさんはもの凄く腹を立てるんです。どうしてか分かりますか?
ダイアーさんはお父さんと息子さんを重ねているんですよ。アルコール中毒やったお父さんと息子さんを重ねて見てしまっているんです。それがまたね、どうしようもなくそうしてしまうんですよ。頭では冷静に判断し、対処しようと思うんだけれど、お父さんと自分との腹立たしかった関わりからどうしても感情的に息子さんに対しても振舞ってしまうんです。
そんな時にですね、ある本に書いてあったこんな言葉を思い出した。
「私はこんな状態ではなく、平和を選ぶ事が出来る」
この言葉を何回も何回も繰り返し唱えているうちにようやく落ち着けたのだそうです。ようやく息子さんとも冷静に話をする事が出来、友達のお家の歯医者さんの所へ連れて行って治療もして貰えた。
それ以来、息子さんはお酒を飲まなくなり、悪い友達とも遊ばないようになったのだそうです。ですから、過去の延長上に未来を強いられる必要はないんです。未来に何を選ぶかいうの僕らの自由なんです。「私はこんな状態ではなく、平和を選ぶ事が出来る」なんです。
ダイアーさんはこんな譬え話で説明していました。
船がある航跡(ルート)を描いて現在の位置まで辿り着いたとする。
じゃあ、これからも過去の航跡に引き摺られてその航跡の延長上を進んでゆかねばならないのかというとそんな事はない。過去の航跡に関わらないどの方向にでも自分の決断でハンドルを切って進んでゆくことが出来るんですよ。そういう事が書いてあった。
貴方はこんな「過去世の業」があるから今こんな事になってるんですよっていう宗教家がいたりする。あなたは過去世にこんなことを経験していますよと告げられたりする。
過去にたどってきた航跡にあなたの意識の焦点を当ててそこにあなたの意識を固着させてしまうと、あなたの未来の航跡をその過去の体験のまま再生産してしまうことがあるので注意が必要なんです。
「あなたは過去世に高いビルから落ちて死にましたよ」と聞いてしまうと、その恐怖を心に刻印してしまうから、この世でも高いところから落ちて怪我をするような事件が起こりやすくなるのだそうです。
だから過去の詮索をする事はあまりよくないんです。精神分析なんかもそうですけど、過去を分析して自覚してしまうと、それがこだわりになって、人生をその方向に縛ってしまう人が多いんですよ。
ある人は自己啓発のセミナーに参加してね、音楽が鳴っている間は部屋の中を歩き回る。音楽が止まったらその時目の前にいた人に向って「私の事好きになって下さい」と声を掛ける。
そんなゲームをしたんだそうですが、どうしても「私の事好きになって下さい」と言えないで固まっている人が居るんです。
それで、そのセミナーのインストラクターがその辛い立場になっている人と話をするんです。すると、その人はこんな話を始めたそうなんです。「実は私は過去にこういう事があっったんです。それがトラウマになっていて、それで私は『私の事好きになって下さい』とどうしても人に向って言えないんだと思います」とね。
それに対してインストラクターは、「ストップ!、話を止めてください。過去のことは詮索しないで!。そうでなくて、今ここで大きく呼吸をしましょう。はいもう一度、はいもう一度」と深呼吸を何度かしてもらって、「さあ、言って御覧なさい」と誘導すると「私の事好きになって下さい」って言えたんだそうです。
カラダには現在しかなくて、過去なんてないんですからね。だから、身体活動に意識を集めると、過去を引き摺らない今・ココに戻れるんです。だから、フリーな状態になって、どのような行動も取れるようになるわけです。
要するに過去の事を詮索して、前世の業を説く宗教とか精神分析なんかもそうですね、それでその人が治る訳じゃあないんです。それが「出来ない言い訳」になっているだけなんです。そうじゃなくて、本当は「今・ここ・この身」しかなくて、それをどう扱うかはあなた次第なんです。あなたはどう振舞おうと自由なんですよということに目覚めなければならないんです。
つぎは、イエス様の聖書の話です。
ある人がね、イエスに質問した。「先生この人が盲目なのは誰の罪なんですか。本人の犯した罪によるんでしょうか、それとも両親や家系の罪によるんでしょうか」。
するとね、イエスは、「本人の罪でもなければ両親の罪でもない。この人を通して神の栄光が輝き現れる為に彼は盲目なんだよ」と。
イエス様は過去なんか見ていないんです、全然ね。そうではなくてこの人がこれから開発していく「いのちの可能性」の輝かしい未来だけを見ているんです。
吉田松蔭もそうやったみたいですね。色んな身分の、様々なクセをもった弟子がたくさんやって来たけれど、そんな身分や過去の経歴なんてぜんぜん見ていない。その人の持ってる最高のもの、これから開発してゆくであろういのちの可能性『きっとこっちの方向やったら伸びるんじゃないかな』という未来の輝かしい可能性だけをひたすら見ているという人だったんです。そういう人やったみたいですね。それこそが最高の教育者でしょう。
イエス様も松蔭さんと一緒、最高の教育者なんです。
イエス様が「本人の罪でもなければ両親の罪でもない。この人を通して神の栄光が輝き現れる為に彼は盲目なんだよ」といった途端、その人の目が開いて見えるようになったんだそうです。
自分の未来が暗闇ではなくて、明るい希望があるんだと実感出来るようになったんですね。自分の明るい未来が見えるようになったから、そんな明るい心の状態になれたから、心が現実を創るのですからね、肉体の目も見えるようになったんですね。
次は公案(禅問答)です。ここでとりあげるのは、禅師の公案です。
ある時にですね、雲門さんは弟子達に問題を出したんです。その日はある月の15日やったらしい。
「15日以前の事は問わない。さあ15日以後君たちはどう生きるのか、一言で表現してみなさい」
これはこれからどういう覚悟で、どういう決断で生きますかと聞いているんです。
「15日以前の事は問わない」というのは、過去はもうないんだよ。過去をいつまでも引き摺って未来をイヤイヤながら決められてしまう必要はないんだよ。さあ、君たちの自由意志でこれからどういう人生を生きようとするのか言ってご覧、と問うているんです。
そしたら、そんな雲門さんの問いに弟子の誰も答えられなかったんだって。
それで、雲門さんが自分で答えを示したんです。それは「日々是好日」でした。
これは茶道なんかでよく出てくる禅語。茶室の掛け軸なんかによく書かれている言葉です。禅の読み方は茶道のほうとちょっと違うかも知れんけれど、僕の師匠は「にちにち これ こうにち」と読んでいた。
これはどういう意味なのか。「どの日もどの日もみんなよい日」という意味。これは決断なんです。これが雲門さんの決断。そう決める。そう断言して生きて行く。辛い日も悲しい日もみんなよい日、これが雲門さんの決断。これが「日々是好日」
曇りの日もあるし雨の日もあるけど「日々是好日」。だから呪文の様に時々辛いことが出てきたら「日々是好日」、「日々是好日」と称えてやりぬいてゆくんですよ。
次は、<許さない心を持ち続けたら貴方を不健康にします>という話。
「ミルドレッドの気づき」という実例がジャンポルスキーさんの『ゆるしの法則』(サンマーク出版)という本に載っています。
ジャンポルスキーさんに講演の依頼が来て地方に行く事になったんです。
ミルドレッドという女性がお世話役で、空港まで迎えに来ることになっていて、空港に到着したけれどミルドレッドさんらしき女性が見当たらない。すると、男性から話を掛けられた。
「ジャンポルスキー先生ですか?私はミルドレッドの夫です。実は家内は胆石で、近く病院に入院して手術する事になっているんですが、今痛みがひどくて家で寝込んでいます。それで私が妻の代わりにお迎えに来ました」と言われた。
時間があったのでミルドレッドさんの家までお見舞いに行ってみた。すると、ミルドレッドさんは痛くてしょうがないらしく顔を真っ青にして寝ている。
「じゃあ、こうしましょう」とジャンポルスキーさんは提案した。「息を吸う時に『私は自分をリラックスさせる事が出来る』と念じ、そして吐く時に『私はリラックスしている』と念じる。それを繰り返して下さい」
ジャンポルスキーさんの処方通りに深呼吸を繰り返しているうちにだいぶ痛みが薄らいできた。
少し落ち着いたところで、ジャンポルスキーさんはミルドレッドさんに「最近ストレスを感じた事はなかったですか?」とたづねた。
そしたら、「実はありました。私は病院の事務をしています。その病院の待合室に院長のお姉さんが描いた気味が悪い絵が掛かっているんです。院長先生が待合室のレイアウトを変えたいと言い出したので、ようやくその気味の悪い絵を取り去る事が出来ると喜んだのですが…」
ミルドレッドさんがレイアウトを考え、改修してようやく待合室は明るく綺麗になったんです。すると院長先生のお姉さんがやって来て、「何故私の絵をはずすのよ!」と怒ったんです。それから一悶着あって、院長先生もお姉さんに賛成して、結局絵を元の位置に戻すという事になってしまったんだそうです。
ミルドレッドさんは腹を立てて「それなら私は辞めます」と辞表を提出したという事でした。
それに対してジャンポルスキーさんはこう言った。
「あなたは自分が腹を立てた事に『罪の意識』を感じているんですよ。だから『自己処罰』して、胆石になり激しい痛みを体験することになったんですよ」
「胆(きも)が焼ける」と言いますね。やっぱり心の状態はカラダに現れるんですよ。心の状態、憎しみとか怒りとかはカラダに来るんです。
そしてジャンポルスキーさんは「『神様がそんな私も院長もお姉さんも全部許して下さっているという事を感謝します』と祈りながら瞑想しましょう」と提案した。20分ほど瞑想をしたら、痛みは完全になくなったんです。
その時に病院から電話が掛かってきて入院の準備が出来ましたと言われたんだけれど、ミルドレッドさんは「すいませんけどもう痛くなくなったので入院は止めます」と伝えたんです。そういう話がこの本に載っていました。
もう1つの話は、これは、ジャンポルスキーの『ゆるすということ』(サンマーク出版)という本に載っている話です。
ガン病棟の看護師さん(女性)がお世話役になって、ジャンポルスキーさんのワークショップが開かれた。「許すためのワークショップ」なんです。
「あなたの心の中にある『許せない事・恨んでいる事』を、大きなゴミ箱をイメージしてそこに放り込んでいきましょう。ある限りの許せないことをドンドン放り込んでいきます。
次に、ヘリウムの入った大きな風船をイメージして下さい。それをゴミ箱にくくり付けます。ゴミ箱が空にフワッーと浮かび上がっていく様子をイメージして下さい。そして、そのゴミ箱に向って、『さよなら、有難う』と声を掛けてあげてください」、そういうワークショップだったそうなんです。
そんなワークショップの様子を見ながらお世話役の看護師さんは、壁際に立って腕組みして傍観していた、『私には憎んでいる人なんかいないわ』って顔をして立っていた。
皆そう言うんです、最初はね。「憎んでることや人なんかありません。そんな気持ちは私の心のどこにもないです」とね。
それは嘘です!絶対ある、心の中にいっぱいあります。ウジャウジャトとね。
この看護師さんも最初は憎んでいる人なんていないと思っていたんだけど、アッと思い出した。別れた夫が居た。若い女に走りやがった。
それを思い出してすごく腹が立った。それでその元夫の首根っこをイメージの中で掴んで、ゴミ箱にエイッと放り込んだ。そして天高く上昇してゆくゴミ箱を見て、『バイバイ』した。
そういうイメージを見ながら顔を上に向けてゆくと、ポキッと大きな音がして首が…、実は離婚してからずっと首の付け根が痛かった、凝り固まってしまって痛かったのが突然ほどけて柔らかくなり、痛みが取れて楽になった。『首根っこを掴んで放り投げてやりたい』という思いが「首の硬直や痛み」となって現れていたんですね。こういう風に許さない心があると、体や人生の硬直や痛みとなって現れることがよくあるんですよ。
ところがね、日本人はね、憎しみの対象を特定してね、いちいちそれをターゲットにして過去をほじくり返したり、その上で許したりする面倒な作業は合わないんじゃないかなと思う。私たち日本人には、もっとおおらかに、カラダから入ってゆく「ほどき方」があっているように思うんですね。
「許す」という日本語の語源は「ゆるくする」事なんだそうです。要するに「ゆるく」したらいいんでしょ、身と心を。
そしたら過去を掘り返して、憎む相手を見つけ出して、その対象をいちいち許す作業をするなんて必要ないんじゃないかなと思う。
ある女性が、自身の過去を振り返って、憎しみや腹立たしさを抱いた事件を思い出して、それをひとつひとつ許し解消してゆくという何メソッドか忘れましたが、その方法にしたがって作業を始めたんです。
私はその人に、「その作業を続けてもあなたが本当の安らぎの境地に到達することは出来ませんよ」と言ってあげたんです。
しかし、その女性は私の忠告を受け入れてくれなかったんです。私は「そんな作業をどこまで続ける気ですか。あなたの今生の憎しみをその方法で全部解消出来たとしても、今度はあなたの過去世の憎しみ体験を掘り起こして解消しなければならなくなりますよ。それだけでも一生のうちに解消作業は完了できないでしょう。
それに、いのちは一つしかなくて、すべての人が実はあなたなんだから、そんな人たちの無数の過去世から現世にいたる憎しみ体験もほどいていかなくてはならなくなりますよ。
だから、そんなアタマでする努力をやめてただ坐禅したらいいんですよ。冷たい氷の固まりが無数に水に浮かんでいて、それを一つ、一つ砕いてゆく、そんな作業を限りなく続けてゆくより、ただ坐禅して心を温かくしたら、氷が無数にあったとしても、いつの間にかすべて解けて水に戻っているでしょう。そうしようと思わなくても、坐禅さえしていればそうなるんですよ」
その女性はその時は納得してくれず私から離れていきましたが、数年後に「先生のおっしゃったことが本当でした。『ひとついのち』がようやく分かりました」とおっしゃって帰って来られました。
身と心をゆるくしたら自然にエゴの囲いがはずれて「仏」になれる。つまり「ほどけた人」になれるんですよ。
そういうほどけた状態になったら、アドラー心理学でいう「共同体感覚」が自然に芽生えてくるのです。
アドラー心理学はなかなか面白くてですね、僕は若い頃はアドラーさんに興味がなかったんです。ユングが好きだったんですけどね。今ではアドラーさんが面白い。アドラーさんの心理学にはいろんな方向に発展させることが出来る可能性が秘められているように思うのです。
アドラー心理学の目的は「共同体感覚を身につける事」なんだそうです。
その「共同体感覚」の定義というのは、
① 私は自分が大好きだ。これは「自己受容」ですね。これは「自分が許せる」という事です。
② 私は周りの人々や物を信頼出来る。これは「他者受容」ですね。これは「他者を許せる」という事ですね。
③ 私は世界を愛している。これは「世界受容」ですね。世界を拒絶しないで許すことが出来るという事ですね。
つまり、「自分を許し、人を許し、世界を許す」こと。これが一番大切なポイントじゃないかな。そういう人間になりたいですね。
そのためにはどうしたらよいのかと言うと、やはりカラダから入る「坐禅」が一番いいんですよ。毎日10分でも良いから坐禅して欲しいなあと思います。
坐禅すれば「ほどけ」ます。「今・ここ・私」に落ち着ける様になります。そうすれば「しあわせ感覚」が自然に湧き上がってきます。
これは「対象のないしあわせ」です。何かがあるからしあわせという、「対象があるからしあわせ」なのではありません。
「しあわせ」って、どういう状態のことなんでしょうね。
昔は「仕合わせ」と書いたのだそうです。
みんなと一緒に共有する目標の達成のために、各自役割を分担して作業している。心を合わせ、心をひとつにして共同作業している。そんな時、つまり「一体感・連帯感・貢献感」が持てた時、人間(特に日本人は)は「しあわせ」を実感するんです。
お祭りなんかもそうですね。氏子一同でそれぞれ役割を分担し一致団結して共通の神様の為に奉仕する。そんな時の「一体感・連帯感・貢献感」が「しあわせ」の正体なんです。
「仕合わせ感」には、もうひとつの場合があります。
それは自分と対象となっている仕事の間に違和感がなく、自分と対象がピッタリ一つになって無心に行動出来ているという場合、そんな時は、やる事為す事が、ピタッピタッとツボにはハマってゆくんです。そんな状態の時(実感的には、今やっている行為に没頭していて、自分も対象も意識しないという状態、仏教では「三昧(さんまい)」という)に人は「しあわせ(仕合わせ)」を感じるんです。
私と仕事が二つになっていたらそうはならない。私と仕事がピッタリ一体となって隙間がなければそうなってきます。
別の言葉でいうと「フロー感覚」ですね。自分が行動しているように感じられない。流れに浮かんで運ばれていっているような感じ、運ばれて進んでゆけば、その先々の関門が次々自動ドアになって開いてゆく、そんな感じ。そういう時に人間は「しあわせ」を感じるんです。
この2つの「しあわせ」は、まとめると<人は「自他一体感」が持てたとき「しあわせ」を実感する>ということになりますね。
じゃあ、どうしたら「自他一体感」が持てるのでしょうか。
それは、自他を隔てる「仕切り(殻)」が無い時ですね。
では、どうしたらそんな自他を隔てる仕切り(囲い)をなくすことが出来るのでしょうか。それは、やはり「坐禅」すればそうなれます。
「坐禅」はカラダで坐ります。「瞑想」はアタマで座ることもありますね。意識を何かに集中させたり、何かをイメージしたりします。
しかし、「坐禅」にはそんな集中やイメージはありません。ただカラダを定められた形(印)に組んで坐るだけなのです。
このようにして、アタマからカラダに意識を戻してやると、自然に意識を「今・ココ・この身」に落ち着かせることが出来るようになります。逆に、アタマの方に意識が行ってしまうと、意識は過去や未来に漂ってしまいがちになるのです。そうすると、自他を隔てる「囲い」が復活してしまいます。
しかし、坐禅して意識を「今・ココ・この身」に落ち着かせることが出来るようになると、その時は自他を隔てる「囲い」が消滅しています。「今・ココ」→「今・ココ」→「今・ココ」→・・・、といのちが運ばれてゆく時は、「没我」、「没他(対象)」の状態になっているのです。そうなっている状態でやれた行為は、最高の成果をあげるパフォーマンスとなります。その行為が終わったあとで振り返ると、最高の成果があがる行為が出来ていて驚くということが起こります。それほど自分が消えて行動できていたから、自分がやったという自覚がないのです。
Q.先生が19歳の時に大学紛争で学校の授業が1年間なくなって、その間にいろいろ模索している中で、禅に出会ったという事ですが、何故禅に「これだ!」と思われたんですか。
A.確かその頃はアーノルド・トインビーの本を読んでいました(イギリスの歴史学者)。「文明史観」という、文明と文明の衝突によって新しい文明が生まれるというそういう歴史観をはじめて世に出した学者です。
トインビーさんの本の中に世界宗教が文明の土台になると書いてあった。だから、宗教を学びたいと思ったんです。図書館にこもっていろんな宗教の本を読んでみたけれど、どの宗教にも神話や教理があって、それを信じなければ中に入れないんです。しかし、どの神話や教理も古臭くて信じるに足らないと思ったんです。
ところがね、禅というものがあったんです。この宗教?は信じることから入らなくてもいいのです。疑問から入って、徹底的に考えて、考えて、ついにアタマを超えた世界を体験するという道なんです。だからこれでいこうと思いました。
Q.先生の中から新しい神話が出てきた事について。
A.そのように、神話の否定から禅に入門したんですが、禅をするとすべての宗教や神話が発生する「いのちのベース(根源)」の部分を悟ることができるんです。すると、それぞれの宗教や神話は存在する意義やありがたさがはじめて納得できるようになるんです。そこまでいかなくては本当に禅が分かったとはいえないのです。
それから、キリスト教や法華経や浄土の教えや、さらに神道の尊さやありがたさがしみじみと実感できるようになったんです。
さらに不思議なことには、今度は私が「神話を紡ぐ者」になってしまったんです。現代の「語り部」になってしまったんです。「金平糖大作戦」という人類の魂の進化モデルは「現代の神話」なんです。
Q.思春期の息子と喧嘩になり困っています。
A.思いがそこ(息子さんとの葛藤)に集まると、それが現実化してしまうというのがあるので、「気をそらす」ということが大切です。
カウンセラーさんが居てね、「息子の事が心配で心配で…」というお母さんの相談を受けたんです。
「お母さん、いい解決法がありますよ。私が教えた通りにやれますか」と先生が言った。お母さんが承諾したので以下のような解決法を教えた。
「まずこの部屋から出たらすぐ美容室に行きなさい。髪をきれいにして、それから自分の好みの服を探してショップで捜して、一着買ってから家に帰りなさい」
お母さんがそうしたら、それだけで息子さんと仲良く暮らせるようになったんだそうです。
意識が常に息子さんにへばりついてしまうと、それで息子さんもしばってしまい、悪い状況を増幅してしまうんですよ。だから、「気をそらす」、意識を別の方向に向けるというだけで局面はガラッと変わたりするのです。
自分の趣味やその他、どんなことでもいいんですけど、息子さんの事を考えない時間を作ることが大切です。
何事でも巻き込まれたら負けなんです、一旦そういう事になったらスイッチを切る。「息子さんスイッチ」を切る
Q.人の事をなんとかよくしてやろう、直してやろうとした経験があったんですが、皆一人一人考えがあってそういう時は衝突してしまう。そういった経験から今はしなくなったのですが、その経験は無駄だったのでしょうか。
A.今生で花が咲くとは限らないけれど、「種を蒔く」という事は大切なことで、必要なことだと思います。
人間には人を変えることなんて出来なくて、変えられるのは神様だけなんです。でも自分にやれるだけのことはやらねばなりません。その上であとは「神様、よろしくお願いします」と祈ってお任せしておればいいのです。
成果が出る事を望んだらあかんのです。
人生でやる事って、みんな「ムダ骨折り」なんです。やる事なす事、ゴミ箱に放り込む様なもの。エイッエイッと、次から次へゴミ箱に放り込んでゆくようなつもりでやるんです。「ムダ骨折り」は尊いことなんです。「ムダになるかも知れんことを嬉々としてやり続けられる人」が禅では最高レベルの悟りを得た人としています。
Q.伊勢神宮の話をよく聞くのですが、伊勢神宮に御参り出来ない人は氏神様にと聞きました。近くの氏神様が寂れているのですがどういう神社がよいのでしょうか。
A.基本的には掃除がなされて、神事が丁寧になされている神社は神様が宿っています。賑やかで活気がある所は神様が宿っている。そういう神社に参ってください。汚らしい寂れた神社には、もう神様も去っておられないで、レベルの低い人霊や動物霊の棲家となってしまっている場合が多いのでお参りされないほうがいいですね。
ただし、そんな寂れた神社を、私のお金と労力をつぎ込んで再興させてやろうと決意されるなら、それはとても尊いことでたくさんの徳を積むことになります。(完)