再録 奇跡の道 その107~癒されるためには患者が自分の心を・・

「癒されるためには患者が自分の心を変えなければ
ならないというのなら、神の教師は何をするのだろう。」

患者当人の心を当人に代わって変えられるだろうか。
当然にそれはできない。

「すでに自分の心を変えようとする意欲がある者に
対しては、神の教師の機能は、ただ彼らとともに
喜ぶだけである。」

彼らも彼と一緒に神の教師になったからですね。
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再録 奇跡の道 その108~判断はどのようにして放棄されるのか

「判断はどのようにして放棄されるのか」

判断というものも、世界によって全面的に誤解されている。
それは実際に叡智と混同され、真理の代替とされている。

この言葉の用い方によれば、ひとりの個人が「良い」判断と
「悪い」判断をすることができ、彼の教育は前者を強化し、
後者を最小限にすることを目指している。
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森信三先生の言葉 9~われわれ人間も「暑い、寒い」という・・・

 われわれ人間も「暑い、寒い」ということを
言わなくなったら、おそらくそれだけでも、
まずは職場内では、一流の人間になれると
いってよいでしょう。
総じて精神的な鍛練というものは、肉体的な
ものを足場としてでないと本当には入りにくい
ものなのです。たとえば精神的な忍耐力は、
肉体上の忍耐力を足場として始めて身に
つくものです。さればこそ、肉体的に寒暑を
打ちこえて行くことが、やがて人生に於ける
順逆の波に溺れない秘訣ともなるわけです。
実さい人間、暑い寒いを言わないということを
貫いて行けば、やがては順逆を超える境地にも
到り得るといってよいでしょう。
順逆をこえるとは、順境にあっても調子に
のらず、逆境にあってもへこたれないということで、
この点は実に味わいの深いところです。

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2558「死はすぐそこに」2021.12.26 自分で自分を自分するから

https://tenmei999.blogspot.com/2021/12/255820211226.html

今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月20日の記事を紹介します。

「死はすぐそこに」

ここ数年、地球の波動が上がっているためか、

・覚醒した・・という方

・地球に来た目的を思い出した方

が急激に増えているようです。
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2559「縄文回帰」2021.12.27 自分で自分を自分するから

https://tenmei999.blogspot.com/2021/12/255920211227.html
 
今回は「いっぷくからのありがとう」さんの2021年12月21日の記事を紹介します。

「縄文回帰」

日本に古く、縄文時代から存在した「神道」の考え方。

これは、教祖も教義を持たず、よって宗教とはなりえません。

古くから日本人が持つ、心のよりどころのようなものです。

そこで説かれることは、
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森信三先生の言葉 10~われわれ人間というものは、すべて・・・

 われわれ人間というものは、すべて自分に対して必然的にあたえられた事柄に対しては、そこに好悪の感情を交えないで、素直にこれを受け容れるところに、心の根本態度が確立すると思うのであります、否、われわれは、かく自己に対して必然的にあたえられた事柄については、一人好悪の感情をもって対しないのみか、さらに一歩をすすめて、これを「天命」として謹んでお受けをするということが大切だと思うのです。同時にかくしてはじめてわれわれは、真に絶対的態度に立つことが出来ると思うのです。

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 わたしの考えでは、われわれ人間は、自分がここに人間として生をうけたこに対して、多少なりとも感謝の念の起きない間は、真に人生を生きるものとは言い難いと思うのです。実際この地上の生物の数は、人間のそれと比べていかに多いか、実に測りがたいことであります。しかもお互いにそれらの何かでもなくて、ここに人間としての「生」を与えられたわけですが、しかもそれが、何らわが力によらないことに思い及べば、何人も享け難い人身を受けたことに対して、しみじみと感謝のこころが湧き出るはずであります。

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 われわれは、平素自分が受けている恩恵については、その程度の深いものほど、かえって容易に気づき難いのが常であります。それはちょうどわが顔は、自分に最も近いにも拘わらず、あまりの近さの故に、かえって平生それと気づかずにいるのと同様だといえましょう。