再録 奇跡の道 その32~実相世界を見ることは、全的な知覚である

「実相世界を見ることは、全的な知覚である」

見る。?
全的な知覚。?

実相は「空」ですから見ることも
知覚することもできないのかも。
ですが全的知覚なら物質である言葉では
表現できない「空」をギリギリ語れる
限界の言葉なのでしょうか。
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再録 奇跡の道 その33~天と地が一つになるとき、実相世界さえも・・

「天と地が一つになるとき、実相世界さえも、
あなたの視界から消え去る」

天と地と人で三位一体。

天も地も人がいないとそれを認識できません。
同じように他の人も自分がいないと認識できません。
他であることがわかるのは自分であり、
自分の存在をわかるのは他の人です。
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 10 どうすれば心は静かになるのでしょうか?

10・どうすれば心は静かになるのでしょうか?

 「私は誰か」と尋ねることによって。
「私は誰か」という想いは、他のすべての想いを
破壊するだろう。
燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、
やがては「私は誰か」というその想い自身も
滅ぼされてしまうだろう。
そうすれば自己実現がやってくるだろう。

再録 奇跡の道 その34~目に見えないものを・・・

「目に見えないものを見ることはできない。
だがそれ(行動)がもたらした結果を見れば
それ(見えないもの)がそこにあることがわかる」

結果は目の前の世界のことでしょうか。
実はその目の前の世界すらないと言えますので
多少ややこしいですね。
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再録 奇跡の道 その35~外の世界として知覚する一切は・・

「外の世界として知覚する一切は、あなたが自我と
同一化することを続けようとする試みにすぎない」

外の世界とは、目に見える世界のこと。
現実と呼ぶ世界のことですね。

その目にする一切が自我を続けようとする試み。?

普通は自我を続けようとすることを別に意識している
わけでもありませんが、何も考えないで普通に見ていますね。
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 11 「私は誰か」という想いを持ち続けるには・・ 

11・「私は誰か」という想いをつねに持ちつづけるには、
どうしたらいいでしょうか?

 他の想いが起ってきたときに、その想いを追いかけることをやめ
「その想いは誰に起きてきたのか」と尋ねる
べきである。どんな想いが起ろうとかまいはしない。
想い、が起こるたびに「その想いは誰に起こってきたのか」と
勤勉に問いつづければよい。
その問いに対する回答は「私に」であるに
決まっている。そこでその「私は誰か」と問えば、
心は源に引き戻され、現れ出た想いは静かになるだろう。
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 12 心を静かにするその他の方法は・・・

12・心を静かにするその他の方法はないでしょうか?

 問う以外に適当な方法はない。
他の方法によって心を静めても、心は静められたもの
として現れ、力を増して前面に出てくるだろう。
例えば、呼吸の制御によって心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間だけのことであり、
呼吸が元に戻れば心は再び活動を始め、潜在している
さまざまな印象に衝き動かされてさまよい歩くだろう。
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再録 奇跡の道 その36~全的な愛を差し出さないことにより・・

「全的な愛を差し出さないことにより、
あなたは完全に癒されることはなくなる」

全的ですから、このことだけとか、この人にだけとかは
ないんですね。
例外なくすべての人に、またことに愛を差し出す。

だから自分の培った判断で人やことを
裁けば、すでに全的ではないですね。
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