森信三先生の言葉 25~友情の最も深く感ぜられる・・・

 友情の最も深く感ぜられるのは、何といっても道を同じくし、師を共にする同門の友との間柄でしょう。というのも、そのときそこで語り合う問題は、決して単なる世間話ではなくて、常に人生の問題であり、道の問題であるからであります。したがってまたそうした友人と会うことは、自分の生き方の上にも、常に新たなる刺激と力とを与えられるわけであります。

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 そもそも友人関係というものは、師弟の関係を仮に縦の関係とすれば、まさに横の関係ともいうべきであって、師から受けるのとは、またおのずから違った面を教えられるものであります。たとえば師弟の関係から絶対的なものを教わるとすれば、友人関係からは、人生の相対的方面を教えられるとも言えましょう。

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 哲学においても、真の絶対は、相対の面を含んで初めて真の絶対であるといわれるように、この真理は、師弟朋友というような、人生におけるもっとも具体的な関係の上にも当てはまるかと思うのです。すなわち師弟の道は、それが絶対の道として、大切なことは申すまでもありませんが、しかし単なる師弟の道だけで、その上さらに友人の道が正しく履み行えないというのでは、その人の人柄の上に、まだどこか至らないところのあることを示すものと言えましょう。
 かように考えてきますと、友人関係というものは、ある意味では師弟関係以上に難しいとも言えましょう。すなわち真の友人関係には、ある意味で師弟関係の仕上げとも言うべき面があるからです。

森信三先生の言葉 26~真の叡智とは、自己を打ち越えた・・・

 真の叡智とは、自己を打ち越えた深みから射してくる光であって、私たちはこの光に照らされない限り、自分の真の姿を知り得ないのであります。そうしてかような反省知、自覚知を深めていくことによってわれわれは、万有の間における自己の真の位置を知り、そこに自らの行くべき大道を見出すことができるのであります。
 かくしてわれわれ人間が、天地宇宙の間に生まれ出た一微小存在としての人間の道は、このように、天地を背景として初めて真に明らかとなるのであり、さらには天地の大道と合するに至って、初めて真の落ち着きを得るわけであります。

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 人間は自ら気付き、自ら克服した事柄のみが、自己を形づくる支柱となるのです。単に受け身的に聞いたことは、壁土ほどの価値もありません。

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 自分が躬をもって処理し、解決したことのみが、真に自分の力となる。そしてかような事柄と事柄との間に、内面的な脈略のあることが分かり出したとき、そこに人格的統一もできるというものです。

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 死後にも、その人の精神が生きて、人々を動かすようでなければなりません。それには、生きている間、おもいきり自己に徹して生きる外ないでしょう。

                                        

森信三先生の言葉 27~人間は生まれると同時に・・・

 人間は生まれると同時に、自覚の始まるわけではない。人間が真の自覚を発するのは、人生の三分の一どころか二分の一あたりまで生きないと、できないことのようです。そしてここに、人間の根本的な有限性があるわけです。
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  焼き芋は、火が通らないとふっくらと焼けない。人間も苦労しないと「アク」が抜けません。同一のものでも、苦労して得たのではないと、その物の真の値打ちは分かりません。

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 自分の「血」と「育ち」における卑しさが自分の言動のどこに、いかなる形態をとって現れているかということを、まず知らねばならぬと思うのです。
 実際に気品というものは、人間の修養上、最大の難物と言ってよいからです。それ以外の事柄は、大体生涯をかければ
必ずできるものですが、この気品という問題だけは、容易にそうとは言えないのです。

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 つまり人間というものは、教えの光に照らされなければ、たとえ幾年、否、時としては十数年の永きに交わっても、この点に対する深い自覚には至り難いものであります。けだし教えの光に照らされるということは、つまり自分の醜さが分かり出すということだからです。

森信三先生の言葉 28~人間の真の強さというものは・・

 人間の真の強さというものは、人生のどん底から立ち上がってくるところに、初めて得られるものです。人間もどん底から立ち上がってきた人でなければ、真に偉大な人とは言えないでしょう。

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 死生の悟りと言っても別にはなくて、お互いにこの生ある間を、真に命がけで生きるという外ないわけであります。これ先に生に徹することが、やがてまた死生を超える道だと申したゆえんであります。そして死ぬとは結局、生まれる以前の故郷へ帰ることだといえましょう。ですからわれわれは、この世にある間は自分の全力を挙げてこの世の務めを尽くす。これやがてこの世を去る唯一の秘訣でありましょう。いざという時に心残りのない道、これ真に安んじて死に得る唯一の道であります。

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 人間はこの肉体をもっている限りは、煩悩の徹底的根切は不可能である。そしてこの一事が、身根に徹して分かることこそ真の救いといってよかろう。

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 総じてその実質が同じ程度の偉大さであるならば、その人の社会的位置が低ければ低いほど、後世におけるその感化影響の力は、大きいと言えましょう。
 世間の人々は、多くはこの道理を知らないで、ただ位置さえ高ければ、それだけその影響力も広く及ぶように考えがちですが、それはただ物事の上面だけを見ているにすぎないのです。

森信三先生の言葉 29~神は至高至平であって、神の天秤は・・・

 神は至高至平であって、神の天秤は何人においても例外なく平衡です。神の天秤の公平さが形の上に現れたものが、すなわち「世の中は正直」ということになるわけです。神の公平と世の中の正直とは、実は別ものではないと思うのです。

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 総じて精神的な鍛練というものは、肉体的なものを足場にしてでないと、本当には入りにくいものです。たとえば精神的な忍耐力は、肉体上の忍耐力を足場として、初めて真に身につくものです。

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 真の一流者と、人生を艱難の中に過ごしてきた人の考えとは、その結論において多くは相通ずる。唯、中心の同じ円にも、大小の別のあるように、ただ理論の上に深浅の差あるのみです。ゆえに古老の言に傾聴する謙虚さを持たぬ学者は、取るに足らないのです。

森信三先生の言葉 30~親の恩が解らなかったと解った時が・・・

 親の恩が解らなかったと解った時が、真に解り始めたときである。親恩に照らされて来たからこそ即今自己の存在がある。

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 我は不幸者と分かって初めて親の生命との連続を実にし得る。糸を切ろうとして、その切れないことを悩む者にして、始めて糸の強さも分かるのである。深刻なる不幸の自覚に即して、初めて親子一貫の生命に目覚めるものと言ってよい。

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 すべて人の融会には、まず上位者の反省が根本なり。随って師弟一如も、まず教師の側の反省を本とする。これによりて初めてよく弟子たる人々を包摂するを得べし。形より言えば、上位者の内省よく下位者を支えるというべし。

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 真空を造らんとせば、非常なる物理的努力を要するも、一旦できれば、非常なる吸収力を蔵して恐るべきものとなる。師説を吸収せんとせば、すべからくまず自らを空しゅうするを要す。これ即ち敬なり。ゆえに敬はまた力なり。真の自己否定は、いわゆるお人好しの輩とあい去ることまさに千万里ならむ。

森信三先生の言葉 31~真空に徹するところ・・

 真空に徹するところ、個性の天真は自らにして躍り出ずるなり。一念個我の念の存する限り、真に純乎たる天真の顕現とは言い難からむ。

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 或いは寝ね、あるいは厠へ行き、食をとり、さらに学問する等々、その外形は千変万化すとも、その根本に内在する一心の緊張は、常持続、常一貫を要すると知るべし。

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 順逆一如の諦観は、その中にすでに死・生一如の安立を含む。自己一身の名利の念を脱し得ざる間は、真に国のためと言うを得ず。己身の
名利の悩みを脱し得て、初めて真に国と民族とを説き得べし。ここに至って学問の道初めてその極処に達すというべし。
 学問の道げに遥かなるかな。学人たるもの、その始めに当たって深く覚悟するところあるべし。

 

森信三先生の言葉 32~人が真にその心の置き土産と・・・

 人が真にその心の置き土産となしうるものは、その人がその場所、その位置に置かれていた間、その全生活を貫いて歩んだその心の歩みこそ、否、それのみが、真に正真正銘の置き土産となるのではないかと思うのです。実さい世の中というものは、たびたび申してきたように、正直そのものですから、平生いい加減なことをしていては、いざとなったからとて、今さらどうなるわけでもないのです。実さいその人の歩んだだけが歩んだのであり、積んだだけが積まれたのである。そこでわれわれ人間は、お互いにその日頃の生活において、つねに置き土産を用意しつつあるのだという気持ちを、忘れてはならないと思うのです、生まれたものには必ず死ぬ時があり、来た者には必ず去るときがあります。また逢うた者は必ず別れるべき時のあるのは、この地上では、どうしても免れることのできない運命といってよいでしょう。同時にもしそうだとしたら、わたくしたちも自分が去ったあとの置き土産というものについても、つねに心を用いる処がなくてはならぬでしょう。