ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 26 無欲と智慧には・・・

26・無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?

 無欲が智慧である。二つは別のものではない。
それは同じである。無欲とは、心がどのような
対象物に向かうことも差しひかえることである。
智慧とは対象物が現れないことを意味している。
別の言い方をすれば、自己以外の何ものも
求めぬことが無執着、あるいは無欲であり、
自己をけっして離れないことが智慧である。

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 25 洞察力・・

25・洞察力(ジュンャーナ・ドゥリシュティ)とは
なんでしょうか?

 静寂にあることが、洞察力と呼ばれている
ものである。
静寂にあるということは、心が自己に
溶けていることである。
過去のできごとを知ったり、現在や未来の
できごとを知るテレパシーや千里眼のような
ものは、洞察力(ジュンャーナ・ドゥリシュティ)ではない。

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 24 幸福とはなんでしょうか?

24・幸福とはなんでしょうか?

 幸福は、自己の本性そのものである。
幸福と自己は別のものではない。
世界のいかなる対象物の中にも幸福はない。
私たちは無知のゆえに、対象物から幸福を
得るものと思っている。
心が外に出てゆくとき、悲惨を味わう。
心の願いが満たされるときには、
実は、心は自身の本来の場所に戻っており、
自己である幸福を楽しむのである。
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ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 23 解脱を願う者にとって、本を読む・・

23・解脱を願う者にとって、本を読むことは
どんな価値があるのでしょうか?

 すべての聖典は、解脱を得るためには
心を静かに保たねばならないと説いている。
だから、全ての聖典の結論は、心を静かに
保つべしということである。
ひとたびこのことが理解されるなら、際限もなく
本を読む必要は何もない。
心を静めるために、人はただ自分自身の内に
自己とは何かと問いつづけるべきである。
聖典を読むことによっては、この探求はできない。

人は自分自身の智慧の眼で、自身の自己を
知らねばならない。

自己は五つの覆いの内側にあるが、書物はその外にある。
自己は、五つの覆いをはぎ取ることによって
探求されるべきものだから、それを書物の
中に求めることの愚かしさは、言うまでもない。
やがて、彼が勉強したすべてのことを忘れ
去らなくてはならないときが来るだろう。

※五つの覆い

五つの感覚機能、視覚、臭覚、聴覚、
味覚、触覚のこと。

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 22 目覚めているのと、夢見ていることに・・

22・目覚めているのと、夢見ていることに
違いはないのでしょうか?

 眼が覚めている状態は長く、夢は短い。
この他には何の違いもない。
眼覚めている間に起るできごとが真実と
思われるように、夢の中のできごとも
夢の中では真実のように思われる。
夢の中では、心は自分のものではない
身体に宿っているかのごとく装っている。
眼が覚めている状態と夢の両方の状態に
あって、想い、名前、形が同時に現れてくる。

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 21 解脱を願う者にとって・・・

21・解脱を願う者にとって、意識の構成要素
(タットヴァ)を探求する必要があるでしょうか?

 台所のごみを棄てるのに、その中身が何であるか
調べたり分析したりする必要は少しもない。

同様に、自己を知ろうとする者には、意識の
構成要素の数を数えたりその性質を
調べたりする必要はない。

彼がしなくてはならないことは、
自分が覆い隠しているすべてのものを、
構成要素などというものともどもに
ぬぐい去ることである。
世界はひとつの夢のようなものと
見なされるべきである。

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 20 神および師は、魂の・・・

20・神および師は、真の解脱をもたらす
ことはできないのでしょうか?

 神および師は、ただ解脱への道を示すだけだろう。
神やグルは、自分で弟子を解脱の境地へ
連れてゆきはしない。

神とグルが別のものではないということは
真実である。

虎の顎にくわえられた獲物に逃れるすべが
ないように、グルの慈愛深い目の内に
入った者は、グルによって救われ、
見棄てられることはないだろう。

けれどもひとりひとりは、神あるいはグルに
よって示された道を自分自身の努力で追究し、
やがて解脱を得ねばならない。

人はただ自分自身の知識の目によってのみ、
自分自身を知ることができる。

他者の目によってではない。
ラーマ神がラーマ神であることを知るために、
鏡の助けを借りる必要があるだろうか。