ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 1

友人からいただいたラマナ・マハルシの「私は誰か」を
連載させていただきます。

故山尾三省さんによる翻訳小冊子からです。

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すべての生きものは、いつでも幸福である
ことを願い、悲惨ではないことを願っている。
私たちひとりひとりについて考えてみても、
そこに自己への至上の愛があることが
認められる。

その愛の源はただ一つ幸福である。
人間の自然性である幸福、意識のない
深い眠りの中で体験される幸福を
手に入れるためには、人は自己を
知らねばならない。

自己を知るためには、「私は誰か」という
問いで自己を尋ねる知識の道が、
最も重要な方法である。

1・私は誰でしょうか?
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 2・3・4

2・私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?

今述べたことのすべてを「これではない」、
「これではない」と否定し去った後に、
ただひとつ残る自覚、それが私である。
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 8 心の本性とはなんでしょうか?

8・心の本性とはなんでしょうか?

 いわゆる「心」と呼ばれているものは、
自己の内に住んでいる驚くべき力である。
心はすべての想いが起こってくる源である。
想いを離れて心はない。
それゆえ想いが心の本性である。
想いなくして、世界と呼ばれる独立した実体はない。

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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 9 心の本性を知るにはどのような道があるのでしょうか?

9・心の本性を知るにはどのような道があるのでしょうか?

 この身体の内に「私」として立ち現れるものが心である。
自分の身体の内のどこに、まず「私」という想いが
現れるか調べてみると、それは自分のハートであることが
知られるだろう。
そこが心の起源の宿る場所である。
人が絶えず「私」「私」と考えていると、
いつしかその想いはハートに集められてゆくだろう。
心の内に現れる、すべての想いの中の最初のものは
「私」という想いである。
他の想いはその後にやってくる。
第二第三の代名詞が現れるのは、最初の個人代名詞が
現れた後のことである。最初の個人代名詞なしには、
第二第三のものはありえないだろう。

ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 10 どうすれば心は静かになるのでしょうか?

10・どうすれば心は静かになるのでしょうか?

 「私は誰か」と尋ねることによって。
「私は誰か」という想いは、他のすべての想いを
破壊するだろう。
燃えている薪の山をかき混ぜる木の棒のように、
やがては「私は誰か」というその想い自身も
滅ぼされてしまうだろう。
そうすれば自己実現がやってくるだろう。

ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 11 「私は誰か」という想いを持ち続けるには・・ 

11・「私は誰か」という想いをつねに持ちつづけるには、
どうしたらいいでしょうか?

 他の想いが起ってきたときに、その想いを追いかけることをやめ
「その想いは誰に起きてきたのか」と尋ねる
べきである。どんな想いが起ろうとかまいはしない。
想い、が起こるたびに「その想いは誰に起こってきたのか」と
勤勉に問いつづければよい。
その問いに対する回答は「私に」であるに
決まっている。そこでその「私は誰か」と問えば、
心は源に引き戻され、現れ出た想いは静かになるだろう。
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 12 心を静かにするその他の方法は・・・

12・心を静かにするその他の方法はないでしょうか?

 問う以外に適当な方法はない。
他の方法によって心を静めても、心は静められたもの
として現れ、力を増して前面に出てくるだろう。
例えば、呼吸の制御によって心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間だけのことであり、
呼吸が元に戻れば心は再び活動を始め、潜在している
さまざまな印象に衝き動かされてさまよい歩くだろう。
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