ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 13・14 対象物から刻みこまれた・・

13・対象物から刻みこまれた印象(想い)が、
まるで海の波のように限りなく立ち現れてきます。
それらのすべてがぬぐい去られるのはいつのことでしょうか?

 自己への瞑想が高く高くなるとき、
これらの想いは打ち破られるだろう。

14・いわば始まりのない時の彼方からやってくる、
対象物によって刻みこまれた印象が溶解し、
その後に人が純粋な自己としてとどまるというような
ことがありうるのでしょうか?
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 15 「探求」はどれくらい・・

15・「探求」はどれくらいの期間
続けられねばならないのでしょうか?

 心の中に対象物の印象が残されているかぎりは、
「私は誰か」と尋ねなければならない。
想いが起ったなら、それはそのときその場で、
「問う」ことにより、それの起った原点において
破壊されなければならない。
自己が得られるまで、中断することなく
自己の黙想に帰りつづけるならば、そのときに
のみ想いは破壊されるだろう。
城の中に敵がいるかぎり、彼らはつねに反撃しつづけるだろう。
敵が現れるたびにそれを滅ぼせば、
やがて城はわれわれの手に落ちよう。

 

ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 16 自己の本性は・・

16・自己の本性は何でしょうか?

 真理の内に存在する者は自己のみである。
世界や個々人の人格、そして神は、
真珠母貝の銀色の輝きのように、
自己の内に現れるものである。
これら三つは、同時に現れ同時に消えていく。

 自己は「私」という想いが絶対にない
ところにあるものである。
それは「沈黙」と呼ばれている。自己そのものが
世界であり、自己そのものが「私」であり、
自己そのものが「神」である。
すべてはシヴァであり、自己である。

ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 17 すべては神のなせる・・・

17・すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

 欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。
太陽に照らされて日長石は火を発し、
蓮の花は開き、水分は蒸発していく。
人々はおのおのそのなすべき仕事を
し終わったのちに休む。磁力が存在することに
よって磁石の針が動くように、個々人が三つの
(宇宙的)機能や五つの聖務に支配され、
それぞれのカルマに従って行為し、そののちに休む
ことができるのは、すべてただ神が存在するという
美徳によるものである。
神は意志を持たず、いかなるカルマも神に力を
及ぼすことはできない。
それは、世間の行為が太陽に影響力を持たないのと
同じであり、すべてに浸透しているエーテルという
実体に、他の四要素が損得勘定を及ぼすことが
できないのと同じである。

※三つの宇宙的機能
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 18 帰依者の中では、どのような人が・・・

18・帰依者の中では、どのような人が最上でしょうか?

 自分自身を神である自己にゆだねきった者が、
最もすぐれた帰依者である。

自分自身を神にゆだねるとは、自己という想いの
他にはいかなる想いが起こることも許さず、
ひたすら自己の内にとどまっていることである。
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ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 19 無執着とは・・

19・無執着とはどういうことでしょうか?

 想いが起ったとき、その想いの根をあますことなく
完璧に消滅させてしまうこと、それが無執着である。

真珠採りは腰を石にしばりつけて海の底に潜り、
そこで真珠を採る。
私たちは無執着とともに自分自身の内に潜り、
自己という真珠を手に入れなければならない。

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 20 神および師は、魂の・・・

20・神および師は、真の解脱をもたらす
ことはできないのでしょうか?

 神および師は、ただ解脱への道を示すだけだろう。
神やグルは、自分で弟子を解脱の境地へ
連れてゆきはしない。

神とグルが別のものではないということは
真実である。

虎の顎にくわえられた獲物に逃れるすべが
ないように、グルの慈愛深い目の内に
入った者は、グルによって救われ、
見棄てられることはないだろう。

けれどもひとりひとりは、神あるいはグルに
よって示された道を自分自身の努力で追究し、
やがて解脱を得ねばならない。

人はただ自分自身の知識の目によってのみ、
自分自身を知ることができる。

他者の目によってではない。
ラーマ神がラーマ神であることを知るために、
鏡の助けを借りる必要があるだろうか。

ラマナ・マハルシの教え「私は誰か」 21 解脱を願う者にとって・・・

21・解脱を願う者にとって、意識の構成要素
(タットヴァ)を探求する必要があるでしょうか?

 台所のごみを棄てるのに、その中身が何であるか
調べたり分析したりする必要は少しもない。

同様に、自己を知ろうとする者には、意識の
構成要素の数を数えたりその性質を
調べたりする必要はない。

彼がしなくてはならないことは、
自分が覆い隠しているすべてのものを、
構成要素などというものともどもに
ぬぐい去ることである。
世界はひとつの夢のようなものと
見なされるべきである。