ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 19 無執着とは・・

19・無執着とはどういうことでしょうか?

 想いが起ったとき、その想いの根をあますことなく
完璧に消滅させてしまうこと、それが無執着である。

真珠採りは腰を石にしばりつけて海の底に潜り、
そこで真珠を採る。
私たちは無執着とともに自分自身の内に潜り、
自己という真珠を手に入れなければならない。

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 18 帰依者の中では、どのような人が・・・

18・帰依者の中では、どのような人が最上でしょうか?

 自分自身を神である自己にゆだねきった者が、
最もすぐれた帰依者である。

自分自身を神にゆだねるとは、自己という想いの
他にはいかなる想いが起こることも許さず、
ひたすら自己の内にとどまっていることである。
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ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 17 すべては神のなせる・・・

17・すべては神のなせるわざではないのでしょうか?

 欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。
太陽に照らされて日長石は火を発し、
蓮の花は開き、水分は蒸発していく。
人々はおのおのそのなすべき仕事を
し終わったのちに休む。磁力が存在することに
よって磁石の針が動くように、個々人が三つの
(宇宙的)機能や五つの聖務に支配され、
それぞれのカルマに従って行為し、そののちに休む
ことができるのは、すべてただ神が存在するという
美徳によるものである。
神は意志を持たず、いかなるカルマも神に力を
及ぼすことはできない。
それは、世間の行為が太陽に影響力を持たないのと
同じであり、すべてに浸透しているエーテルという
実体に、他の四要素が損得勘定を及ぼすことが
できないのと同じである。

※三つの宇宙的機能
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ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 16 自己の本性は・・

16・自己の本性は何でしょうか?

 真理の内に存在する者は自己のみである。
世界や個々人の人格、そして神は、
真珠母貝の銀色の輝きのように、
自己の内に現れるものである。
これら三つは、同時に現れ同時に消えていく。

 自己は「私」という想いが絶対にない
ところにあるものである。
それは「沈黙」と呼ばれている。自己そのものが
世界であり、自己そのものが「私」であり、
自己そのものが「神」である。
すべてはシヴァであり、自己である。

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 15 「探求」はどれくらい・・

15・「探求」はどれくらいの期間
続けられねばならないのでしょうか?

 心の中に対象物の印象が残されているかぎりは、
「私は誰か」と尋ねなければならない。
想いが起ったなら、それはそのときその場で、
「問う」ことにより、それの起った原点において
破壊されなければならない。
自己が得られるまで、中断することなく
自己の黙想に帰りつづけるならば、そのときに
のみ想いは破壊されるだろう。
城の中に敵がいるかぎり、彼らはつねに反撃しつづけるだろう。
敵が現れるたびにそれを滅ぼせば、
やがて城はわれわれの手に落ちよう。

 

ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 13・14 対象物から刻みこまれた・・

13・対象物から刻みこまれた印象(想い)が、
まるで海の波のように限りなく立ち現れてきます。
それらのすべてがぬぐい去られるのはいつのことでしょうか?

 自己への瞑想が高く高くなるとき、
これらの想いは打ち破られるだろう。

14・いわば始まりのない時の彼方からやってくる、
対象物によって刻みこまれた印象が溶解し、
その後に人が純粋な自己としてとどまるというような
ことがありうるのでしょうか?
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ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 12 心を静かにするその他の方法は・・・

12・心を静かにするその他の方法はないでしょうか?

 問う以外に適当な方法はない。
他の方法によって心を静めても、心は静められたもの
として現れ、力を増して前面に出てくるだろう。
例えば、呼吸の制御によって心は静められるが、
それは呼吸が制御されている間だけのことであり、
呼吸が元に戻れば心は再び活動を始め、潜在している
さまざまな印象に衝き動かされてさまよい歩くだろう。
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ラマナ・マハリシの教え「私は誰か」 11 「私は誰か」という想いを持ち続けるには・・ 

11・「私は誰か」という想いをつねに持ちつづけるには、
どうしたらいいでしょうか?

 他の想いが起ってきたときに、その想いを追いかけることをやめ
「その想いは誰に起きてきたのか」と尋ねる
べきである。どんな想いが起ろうとかまいはしない。
想い、が起こるたびに「その想いは誰に起こってきたのか」と
勤勉に問いつづければよい。
その問いに対する回答は「私に」であるに
決まっている。そこでその「私は誰か」と問えば、
心は源に引き戻され、現れ出た想いは静かになるだろう。
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